https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1007/
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
(英語) 刑務所には、アメリカ軍人だった帰米二世の集団がいました。私は彼らと共にかなりの量の肉体労働に従事していました。積み荷の石炭を降ろしたりする作業ですね。帰米は7人いて、米軍に入隊した彼らは、戦争が始まると武器を没収され、兵舎のトイレ掃除をさせられるようになりました。しかし彼らはトイレ掃除にうんざりし、「自分たちを兵士らしく扱ってくれ。そうでなければ除隊させてくれ。」と申し出たそうです。彼らの再三の要請に対して何もなされることはなかったので、彼らはハンガーストライキに入りました。そして自分たちの要請を請願書に起こし、全員が自分の指から出した血で署名をしたそうです。そして彼らは軍法会議にかけられたのです。言い渡された判決は死刑でしたが、後に懲役30年に変更され、結局刑期は15年に短縮されました。その後戦争が終わり、彼らは釈放されたそうです。
ほかに投獄されていた受刑者の中には、別のアメリカ人兵士の集団もいました。彼らはドイツ系アメリカ人で、ドイツ系アメリカ人協会のメンバーでした。ドイツ系協会のメンバーで、アメリカ生まれであってもドイツ系という理由で銃を没収されたそうです。そしてヨーロッパで捕虜として捕らえられ、アメリカに連行されて来た兵士を抑留する収容所で、監視として働いていました。収容所の境界線の外側から周囲を監視して回るパトルールの仕事をさせられていたんですね。彼らは監視中に兵士の脱走の手助けをしたことで軍法会議にかけられました。そして彼らもまたもともとは死刑の判決を受けたのですが、後になって懲役30年に減刑されたということです。
日付: 2006年5月9日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: リサ・イタガキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。 エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。 公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。 戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。 フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)
打ちのめされた誇り (英語)
政治活動家 (1928-2003年)
大衆の力 (英語)
公民権運動への積極的参加(英語)
CWRICに関わった唯一の日系判事
補償運動後の日系アメリカ人の未来(英語)
兵役志願(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
アメリカ政府への反応 (英語)
ハワイ州上院議員 (1924-2012)
父からの言葉 (英語)
基本訓練 (英語)
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
幹部候補生学校卒業後のジェローム訪問(英語)
ジェロームからの異動を拒む(英語)
外見と戦闘効率(英語)
成功しなければならなかった(英語)
アジア人皆のために(英語)
才能をもった第100歩兵大隊の人たち(英語)
「沈黙の合意」(英語)