https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1076/
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
(英語)基礎訓練の後、または最中だったかもしれませんが、休暇を取ることができたので、ロサンゼルスに行きました。退去命令の話が出ていたので、僕は母の荷造りを手伝い、その後、僕が剣道やボーイスカウトのミーティングをしていた日本人学校へ行くと、大勢が教室に荷物を運び入れていました。僕は、「一体何が起こっているのですか?」と尋ねました。「彼らはターミナルアイランドから来ているのだが、追い出されたんだ。行くところがないのでここに来た」と言うのです。それで僕は、どうして追い出されることになったのか尋ねました。僕は、その頃から何かが間違っている、と思うようになりました。
怒りで血が煮えたぎるような思いをしたのは、それが初めてだったと思います。 軍隊では、基礎訓練を受けていた頃から様々な人種の人がいて、人種問題はありませんでした。予備将校訓練課程(ROTC)にも少し参加し、ボーイスカウトもやりました。密集隊形での訓練の時には、軍曹は僕が日系であることを知った上で、僕に隊を率いるよう命じました。もちろん訓練上のことではありましたが、隊を率いたのです。軍隊で差別を感じたことはありませんでした。その後、将校になるための訓練に申し込みましたが、「申し込み資格がない」と言われ、下士官になるためのコースに進みました。その時は、僕が日系人だからだな、と察しはしましたが、誰かを責めたりしませんでした。世の中そんなもの、と流していたのです。でも、ターミナルアイランドからの「追放」とも言える扱いに、僕は初めて怒りを感じました。
日付: 2005年3月25日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。 2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。
2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)
第二次大戦中の排日感情(英語)
カナダの一世ビジネスマン(1918年生)
真珠湾攻撃で中断された大学生活(英語)
二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)
第2次戦中の就職の困難さ(英語)
戦後シカゴでの体験(英語)
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
4C-敵性外国人-に分類(英語)
血管外科医(1921年生)
真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)
アズマノトラベル創設者
戦後リマでの体験談(スペイン語)
ジャーナリスト(1937生)
日本人に対するステレオタイプ: 昔と今(スペイン語)
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)
真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)
日本人移民に興味を持ったきっかけ
津田塾大学学長、日本人の日系史専門家
子供のころ体験した差別(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督
オーシャンパークでの唯一の日系人家族(英語)
作家(1934年生)
映画制作で行った小細工(英語)