https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1091/
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
広島の街の中に入ると、もう、死体の毛布で包んでですね、道端に置いてある。で、川の中には、まだ死体がまだ浮いているんですよね。はい。それはもうXXXX。これは爆弾が落ちたのではなくて、これ広島に地震かなんかあって、あんまり平らだから地震かなんかじゃなかったのかなぁって皆言ってたんですけども。いや、それからだんだんだんだんして、いや地震じゃないって。これは何かなって。で、翌日になって初めてその原爆っていうことをね、知って。
そう、歩くの、そうですね、半日かけて広島駅の向こうまで歩きましてねぇ。え~と、駅の名前、ちょっとここに記録がありますけれども、まで歩いて。広島の駅では、今でも憶えています。あそこで夕方になったかな、初めてあそこで握り飯を食って、えーちょっと曇ってたか、雨が降ってたかなと思うんだけど、どういうわけか、どういうもんだ、何だろうって、私どもの想像もわからない。本当に言葉に表せないほどの、本当に悲しいあれでした。
ですから、原爆の恐ろしさと言うのを、つくづくと体験して、原爆は二度とするもんじゃないって、自分でも人様には言いますけども。自分でもそう本当に心の中でも体験したのは本当に・・・。
で、後になってその部隊へ帰ってですね、広島に爆弾が落ちたと言うのは8月の6日だと。私どもが、その街を通ったのは、広島を通ったのは36時間後だったのですよ。ですから、直接の被爆のあれには私はあっていませんけれども、やっぱり一応、その頃のradiation(放射線)がね出て、体の影響が、私、今、肺気症(はいきしょう)という病気で、息が直ぐ切れるのですけれど、それはやっぱり原爆の影響だろうって、先生はおっしゃるのですけれども。
日付: 2008年6月17日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。 戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。 陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。 須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)
第525アメリカ陸軍需品科(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
フォート・マクラレンの兵士たち(英語)
収容所で姉を失くす(英語)
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
ターミナルアイランドの人たちと収容所へ(英語)
政治活動家(1927-2010)
収容所の屋外便所とシャワー(英語)
15歳の当時、冒険のように思えた収容所(英語)
戦争開始前、日本から米国へ (英語)
花屋 (1916-2016年)
日系アメリカ人の避難 (英語)
収容所の病院で働く (英語)
戦後の差別の経験 (英語)
強制収容、国外追放、弁護士 (英語)
日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)
トゥーリーレイクへ(英語)
初めての映画(英語)
カモメ取り(英語)
楽天的だった父(英語)
第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)