https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1183/
一世医師の娘
(英語)戦争が始まってすぐ、私達はサンタアナの競馬場に収容されました。そこに9ヶ月ほどいましたね。私達はカトリック教徒でしたから、本来はマンザナーにあるカトリック教徒地区に行くはずだったと思います。でも父が医者だったので、父は上の命令に従ってどこにでも行かなければなりませんでした。 でも私達は随分ラッキーでした。というのは、私の教母はポーランド出身で、ご主人は日本人だったのですけど、彼女のお宅に少し物を隠し待ってもらうことが出来たからです。それにメリノール療養所にも物をかくまうことが出来ました。母と姉はこのことは内緒だよと私に言ってました。誰も、勿論医者も、余計な物は持っていけませんでした。すべて政府が支給するということだったので。 それに、最後の食事がモンロビアだったということもあり、サンタアナには尼さんたちが車でつれて行ってくれました。幸運なことに荷物もスーツケースひとつじゃなかったんです。他のいろんなところからやって来たお医者さんは荷物は一つしか持ってこられませんでした。 それからアーカンソーのジェロームに移され、そしてジェロームが閉鎖された後は、同じアーカンソーのローワーに移りました。収容所には全部で3年半ほどいました。たぶんもう少し早めに出られたんでしょうが、父としては、西海岸への転入が許可されるまで待ちたいということで、遅れたのです。
日付: 2010年2月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: エイコ・マスヤマ、キャロル・フジタ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
マーガレット・クロイワ氏は、佐賀県出身の医師、ダイシロウ・クロイワ氏と妻のアグネス・ハルヨ・オガワ・クロイワ氏の3女として生まれました。父であるクロイワ氏は、ターナー・ストリートの南加日本人病院に勤める一世の医師で、地域の重要人物であり、タシロ医師と共にカリフォルニア州を相手取り訴訟を起こした、5人の医師の1人でした。彼が診察にあたっていた地域は、ボイルハイツとリトル東京のタウル・ビルでした。クロイワ医師は、モンロビア療養所で結核患者の治療にも当たっていました。マーガレットと4人の姉妹は、ファースト通りとフィケット通りに当時新設されたばかりの日本人病院で生まれました。(2010年4月11日)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)
強制収容に対する日系アメリカ人の反応について(英語)
強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)
弁護士 (1946年生)
真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)
真珠湾攻撃後に映画館で受けた人種差別 (英語)
強制収容所に送られる大勢の日系人を乗せた汽車との遭遇 (英語)
戦時中の苦難(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
戦時中、日本帝国軍に従軍(スペイン語)
日系人としての誇り(スペイン語)
戦中に救済会に送られた救援金
ブラジル日系移民の母 (1900-1996)
戦時中の救済会の役割
警察での取り調べ