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花屋 (1916-2016年)
(英語) (収容所生活も)終わりごろ、祖母の死に際が近かったの。よくわからないけど、病後療養所のようなところで、祖父もそこにいました。男性と女性の部屋が別々にあったけれど、祖父は気にしてなくて、祖母とよくそこの広間にいたわ。祖母は水を飲みたがってても、誰からも水を与えてもらえないので、祖父が代わりにあげていたの。
なんとか母がリアリー神父に連絡を取ったの。もう数週間が経っていたかしら。ようやく祖母をマンザナに帰すことができたの。戻ったのは夜中で、そのときには、祖母は今にも死んでしまいそうな様子だったわ。病院に連れて行って、祖母は目を何度か開いたけど、それだけだった。
それから看護婦のアキタさんが、祖母の身体の向きを変えら、床擦れの跡が見えたわ。背中や、お尻の部分に。恐ろしい跡だった。そしてアキタさんは、首を横に振って、「なんてこと。全く世話をしてもらっていなかったのね」と言ったの。彼女は大きなドーナツ型のクッションで対処してくれたけど、祖母は朝に亡くなってしまった。痛みを感じるだけだったわ。
日付: 2011年5月24日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
スミコ・コザワ氏は、1916年ロサンゼルス生まれ。五人兄弟の長女であり、第二次世界大戦前は日本で3年間、琴や生け花、茶道を学ぶ。家族が経営する、シルバーレイクの「トーキョー・フローリスト」は、新鮮な花々を適当な値段で買えるためハリウッドの地域で人気だった。スミコ氏はお店を手伝う中で、有名な無声映画スター、グレタ・ガルボを含む多くの人々に出会う機会を得る。日本が真珠湾を爆撃すると、スミコ氏と家族はマンザナへと送られる。スミコ氏はそこで家族、祖父、妹の世話をした。コザワ氏は、2016年12月、100歳で亡くなりました。(2016年12月)
収容所での最初の印象 (英語)
作家(1934年生)
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)
出生地のもつ意義に気づいて (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
第二次世界大戦中の収容所(英語)
一世医師の娘
家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アメリカ人になろうとした結果(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
日本の親戚を訪問(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
家紋を探る(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)
家族構成(英語)
血管外科医(1921年生)
12歳で1930年のフォードを運転(英語)
収容所へ戻ろうとした時(英語)
政治活動家(1927-2010)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)