https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1456/
日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)
(英語) ニッケイは日本語の言葉です。説明は極めて簡単で、日本人を先祖に持つ、外国に住む人を意味します。僕にとっては、二つの文化を持つという、より広い意味があります。そして僕は二世なので、だいぶ変わった形で日本とつながっています。僕が根を生やしているのは確実にここ、カナダです。日本に行った時、僕は良くも悪くも自分がカナダ人であることを再認識しました。僕の魂はこの国の、この風土に根差しています。先ほども土地のことはお話ししましたが、その人がどのような人間か、どのような人物に成長したか、どこに帰属するかという意味で、人は土地の影響を受けます。日本の国土は非常に細長く、小さいですよね。本当に小さな島国なので僕は疲れてしまうのです。開放的なカナダの風景が僕には必要です。そういう意味で、僕は紛れもなくカナダ人です。
それでも僕は両親を通し、部分的に日本とつながっています。それはいい意味でのつながりだと思います。両親が継承しているのは古い明治時代の日本で、そこには貴重な価値観があります。立派な価値観です。それは両親から僕の中にも叩き込まれています。両親の生活の一部であり、道徳観でした。ガマン、ガンバル、そしてキヅカウ、常に他者の気持ちをおもんばかるという意味ですね。そのような価値観です。謙虚に、勤勉に、という単純だけれど大切な価値観です。そういったことは日本ではもうあまり重視されていないかもしれません。
日付: 2011年2月9日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。
1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。
2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)
*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。
スタッフと苦闘(英語)
コミュニティ・アクティビスト
戦後の学校生活(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
組織に挑むこと(英語)
日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)
父と玉(英語)
国際結婚について
戦争花嫁(1925年生)
まさおさん
アメリカへ移住することへの葛藤
母からの助言(英語)
二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)
いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
日系人としてハワイで育つ(英語)
ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)
日本人でもありアメリカ人でもある(英語)
音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生)
両親は新一世(英語)
ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)
ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人
沖縄文化の理解(英語)
本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)