https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1514/
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
(英語)先ほどお話ししたジョージと私が働いていた町に、フランクが家族と一緒にやって来てこう言いました。「もし今働いているところが気に入らなければ、シカゴに来れば仕事はたくさんある」。都会での生活は良さそうだったので、私たちはシカゴに行き、働きました。
それは真夏でした。そして確か10月に私とジョージに連絡があり、私たちは予備軍から徴集されることになりました。その頃までに第442部隊は結成され、第100歩兵大隊の体制はとてもよく整えられ、1944年までにはアフリカに到着していたと思います。戦争が終わったのが1945年ですからね。
一方、私たちはまだ基礎訓練を受けていませんでした。基礎訓練の前、もしくはシカゴで徴集された時、「希望する配属先はあるか」と聞かれました。「軍情報部を志願します」と言うと、「いいだろう」と言われました。
ジョージも徴兵されました。彼は所属先に頓着しなかったので、フロリダに派遣され、基礎訓練を受けて第442部隊の交代要員となりましたが、その頃までにヨーロッパでの戦争は終わっていました。
日付: 2015年2月6日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1921年9月21日、日系移民の両親、イチスケとウメ・フクハラの元にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれる。1927年、ジミーの父は家族を連れてカリフォルニア州サンタモニカに移住し、種苗会社を起業。ジミーはサンタモニカ高校を卒業し、1942年に家族と共にマンザナー強制収容所に送られるまで父の会社で働く。
収容所から早期出所したジミーは弟のジョージと共にペンシルベニア州に移るが、その後60日以内に陸軍に徴兵される。陸軍情報学校に志願し、基礎訓練終了後に東京に派遣され、マッカーサー元師の総司令部(GHQ)の労働局で任務に就く。日本を離れる前、ジミーは両親の親戚を探すために広島を訪問。除隊後はサンタモニカに戻り、4人の兄弟と共に1986年まで種苗会社で働く。(2016年5月)
収容所での最初の印象 (英語)
作家(1934年生)
甥との対話から生まれた小説 (英語)
日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)
日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)
収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)
真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)
真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)
日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)
子供の時にみた父の逮捕(英語)
戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)
先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)
第2次大戦中の日本での苦難(英語)
戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)