https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1801/
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)
サンパウロ大学の日本語学科に試験を受けて入ってみたら、同級生に2人非日系人がいてですね、日本語が全くわかんないから、週末にそのうちの一人の家に集まってですね、日本語を少し教えるというようなことをやってるうちに、そのうちの1人とお付き合いをするようになり。お友達でいるうちはうちの親は何も言わなかったけど、ある時お付き合いをしているのがバレて、かなりけしからんみたいなことになってですね。
その時しかし、もう日本に行くことは大体もう決めていましたから。(彼女は)東京外国語大学の日本語学科に4年間いて、さらに筑波大学に行って修士課程と博士課程で全部10年日本にいたんですね。私もたまたま10年間日本にいて。私が博士課程を終えた時に、じゃあそろそろ結婚をするという年齢にもなっていたし。
日本で彼女はブラジルに赴任する人たちにポルトガル語を教えたりしてて、そうすると、そういう人たちがブラジルにやってきて、うちの親に会ったりすると「息子さんのフィアンセに会ったたけど、彼女はなかなかいいんじゃないですか」と言ってくれて、親も仕方ないと思うようになったんですかね。
日付: 2019年9月19日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1948年長野県に生まれた二宮正人氏は、5歳の時一家でブラジルへ移住。 現在は、サンパウロに法律事務所を構え、サンパウロ大学法学部にて博士教授を務める傍ら、明治大学の学長特任補佐、武蔵野大学法学部客員教授を務める。 1992年の創設時よりCIATE-国外就労者情報援護センターの理事長、日本学術振興会(JSPS) 中南米アドバイザー、国際協力機構 (JICA)の委員なども兼任している。 また、ブラジルニッケイコミュニティリーダーとしても一目置かれており、ブラジル人のデカセギの労働状況の改善や、日系人子弟の教育など、様々な活動をサポートしている。(2021年5月)
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)
父との関係(英語)
第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)
見合い結婚 (英語)
日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)
家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
日系アメリカ人家庭に育つ(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)
家紋を探る(英語)
家族構成(英語)
血管外科医(1921年生)
12歳で1930年のフォードを運転(英語)
1942年10月の妹の死(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)
作家(1934年生)
収容所での最初の印象 (英語)
家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
学校と家で学んだ日本語(英語)
アメリカ人になろうとした結果(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)