https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1802/
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)
サンパウロに住んでるうちにですね、私の父は1989年に亡くなって、母親は私の家族、弟の家族も自分のところに来て住まないかと言ったけど、母は私のところに来ることを選んで、我が家で生活を始めたと。そうすると、三男が1990年に生まれてますから、三男がおばあちゃん子で、一生懸命おばあちゃんが日本語で喋ってですね。それから上の二人も日本語で喋って。うちの母が子供達の日本語教育に貢献してくれたけど、夫婦の会話は常にポルトガル語ですよ。母親だけが日本語しか喋れないので、母親と私の子供達、母親と孫達、母親が日本語で話すのはわかってたんですかね。
冬になると東京大学に招かれて行くようになって。それはそれで悪いことじゃなかったのは、宿舎を与えられましたから、小さかった子供達を連れて日本に行って、母親も連れてって。したがって自分は、直接こういうれっきとした教育方針をもって、子供たちをある一定のモラルの元に日本語も教えてというようなことは、自分の教育方針としてはっきりと持っていたわけではないけども、しかし間接的にそういう風にして日本に連れて行ったり、日本文化に接するということはしましたね。
日付: 2019年9月19日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1948年長野県に生まれた二宮正人氏は、5歳の時一家でブラジルへ移住。 現在は、サンパウロに法律事務所を構え、サンパウロ大学法学部にて博士教授を務める傍ら、明治大学の学長特任補佐、武蔵野大学法学部客員教授を務める。 1992年の創設時よりCIATE-国外就労者情報援護センターの理事長、日本学術振興会(JSPS) 中南米アドバイザー、国際協力機構 (JICA)の委員なども兼任している。 また、ブラジルニッケイコミュニティリーダーとしても一目置かれており、ブラジル人のデカセギの労働状況の改善や、日系人子弟の教育など、様々な活動をサポートしている。(2021年5月)
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)
父との関係(英語)
第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)
見合い結婚 (英語)
日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)
家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
日系アメリカ人家庭に育つ(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)
家紋を探る(英語)
家族構成(英語)
血管外科医(1921年生)
12歳で1930年のフォードを運転(英語)
1942年10月の妹の死(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)
作家(1934年生)
収容所での最初の印象 (英語)
家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
学校と家で学んだ日本語(英語)
アメリカ人になろうとした結果(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)