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公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
(英語)収容所のできごとを肯定的に捉えることもできるんですよ。そこで会う人は、すべて初めて会う人たちですし、彼らがどこの町から来て、職業は農家か漁師か、それとも何か別の仕事かなど、いろいろと話を聞けますし。とにかく私は収容所の経験を、それほど否定的なこととして捉えていないんです。人生の中では、誰もがいろんな変化をくぐり抜けていくものですしね。私の両親に関して言えば、彼らは自分の国を後にしてアメリカに来て。それなのに、アメリカで私たち一家は自分の家から追い出され収容所に送られた訳ですからね。私は日曜学校の生徒達にも話したんです。「あなたたちの人生はまだ始まってさえいないのよ。今から5年後、10年後、そして20年後、どんなことが起こるか想像もつかないでしょう」こんなことを言いながら、子供たちには、その時起こっていたことが起こりうる一番最悪の事態ではない、と心の準備をさせるのがいいかと思ったんです。その後、私は奴隷制や、黒人がどのように扱われていたか知るようになって、「なんてことだろう、他の人達は自分たちよりももっと不当な扱いを受けていたのに、どうして私達が不平を言えるだろうか?」と思ったんです。
日付: 2003年6月16日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。
戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)
当時の収容所に対する認識(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
戦後シカゴでの体験(英語)
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
犯人探し (英語)
大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)
最終判決 (英語)
4C-敵性外国人-に分類(英語)
血管外科医(1921年生)
本土におけるハワイの情報不足(英語)
Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)
収容所へ戻ろうとした時(英語)
政治活動家(1927-2010)
地元新聞紙による日系人への誤った解釈に対しての十代の頃の記憶(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)
弁護士(1955年生)
収容所の中での教育(英語)
「コレマツ対合衆国」裁判を読んで感じた怒り (英語)
カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)