https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/350/
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
日本の僕らが小さい頃こう街で見てる太鼓とかそういうのは、あのわりと着物の着付けとかね、はっぴの着方だとか、いろいろこうやっぱりトラディッションというか、それが当たり前なんだけれど、日本ではそう。でもこっちへ来ると、アメリカの人達はそういうことをあんまり考えなくて自分たちのスタイルでやってるでしょ。だからこれはちょっと日本のあれとは違うなという感じがしましたね。でも、今になってきたらもう慣れちゃって、もうそれのが良いんじゃないかなって思うようになってきたんですよ。形ばっかりうるさいのもまずいんじゃないかな。でも、日本の芸能って言うのは形っていうのが割りとうるさいんで。
まあだから三世の人たちもそういう形をだんだんこう入っていくと、あのー芸の幅が広がるし、だから緊那羅(きんなら)のグループだって最初はそういう風に僕言ったんだけど。ジョニー・モリだって、もうちゃんとピシーっとしてるし、全然今はもうすばらしいと思いますよね。はっぴなんかもちゃんときちんと着てね。
日付: 2005年1月27日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アート・ハンセン、ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
北米和太鼓の師、田中誠一氏は1943年生まれ東京出身の新一世です。千葉商科大学を卒業後、1967年にアメリカへ移住しました。移住当初はワトソンビルで苺摘みをするなど農業労働者として働いてました。その後、サンフランシスコへ引越し、1968年にはサンフランシスコの日本町で行われた桜祭りに参加しました。しかし、この時の桜祭りには彼が若い頃日本のお祭りで耳にした太鼓の音が欠けていました。物足りなさを感じた田中氏は、秋祭りの時に、友達で寄り集まり、地元のお寺から太鼓を借り、自ら太鼓を演奏したのです。以後、太鼓を学ぶために、幾度となく日本へ帰国し、そのつど日本で学んだ知識をアメリカの同志へ教えていきました。1950年代に始まった日本での太鼓復興をアメリカに持ち込み、1968年に北アメリカで初の和太鼓道場(学校)、サンフランシスコ太鼓道場を設立しました。以来、彼は何千人もの生徒を教えてきました。
今日、アメリカ・カナダには200以上の太鼓グループが存在しており、その大半はサンフランシスコ道場へそのルーツをたどることができます。田中氏は基本的な太鼓のリズムパターンや動きを教え続けていますが、その教え方は武道が基本になっています。また、彼の太鼓スタイルは、日本のお祭りの伝統に起因していますが、彼自身のアメリカでの体験も反映され、伝統的な太鼓のリズムにジャズ・ラテン・他のリズムなども融合されています。
彼は日本外務大臣表彰や National Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財) を受賞しました。(2005年1月27日)
唯一の日本文化:食べ物(英語)
南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)
緊那羅太鼓とサンフランシスコ太鼓道場の違い(英語)
和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)
太鼓を通しての日本文化の再発見
サンフランシスコ太鼓道場の太鼓奏者・獅子舞
アメリカでの初めての太鼓パフォーマンス
太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)
日本文化の伝統としての太鼓の音
それぞれの太鼓グループの持つオリジナリティの重要性
アメリカに住むことの利点
太鼓コンテストを通して育まれるグループとしてのアイデンティティ
太鼓リズムの変化-日本的なもからアフロ・キューバンへ(英語)
ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。
日系アメリカ人コミュニティの生活(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
戦後の再出発と日本的要素の否定(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
田中先生と緊那羅太鼓の「太鼓」に対する考え方の違い(英語)
非太鼓グループとの共演(英語)
在日日系人と日本社会
津田塾大学学長、日本人の日系史専門家
和太鼓へのアメリカの影響(英語)