https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/422/
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
(英語) I*: 日本での、男女別学教育について教えてください。
はい。あの頃は本当に厳しかったですよ。放課後や土日に、もちろん土曜日の半日は学校がありましたけれど、お友達や両親と買い物に行く時であっても、学校の制服を着なくてはいけなかったんです。そうやって学校は、高校生の素行を確認していたんですよ。だから男の子と話をすると、見ていた誰かが必ずすぐ学校に連絡するんです。よく覚えていませんけど、当時は電話はもう既にあったと思いますか?
I: ないですね。
ですよね。だから誰かが学校へ行って報告していたんでしょうね。近所の男の子に、「元気?」とか「お母さんは元気?」なんていう風に、話しかけられたことがあったんですが、もうそれだけで、誰かが学校に報告しているんですよ。 それからこんなこともありました。私の父が亡くなった時、私は16歳だったのですが、兄がカナダから帰って来ていたんです。お葬式やいろんなことが片付いたら映画を見に行こうね、と言ってくれて、制服を着て兄と一緒に出かけたんです。そうしたら誰かが校長先生に連絡したらしく、次の日学校で呼び出されてたんです。校長先生は、「昨日の夜はどこに行っていた?」と言うので、「映画を見に行きました。」と答えたんですね。そしたら、「誰とだ?」と聞かれて、「兄とです」って答えると、校長先生はとても驚いた様子で、どうやら私のことを一人っ子だと思っていたようです。(そうと知るなり)先生達は、「ええ?お兄さんだったのか?わかった。じゃあもういいから教室に戻りなさい。」ですって(笑)。
*“I”はインタビューワー(ピーター・ワカヤマ)
日付: 2005年2月14日
場所: カナダ、トロント
インタビュアー: ピーター・ワカヤマ
提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館
シズコ・カドグチさんは二世の日系カナダ人女性。1920年9月29日にカナダのブリティッシュコロンビア州ポート・ムーディに生まれました。1930年に両親とともに日本へ移住し、日本で教育を受けました。カナダへは1940年に帰国しました。結婚後まもなくして第2次大戦勃発し、ヘースティングス・パーク、カナダの内陸タシュメへと強制移住させられました。タシュメを出た後は、トロントへ戻ります。彼女の夫はトロントの日本領事館で働いており、2人の子供を養子として迎えました。池坊に携わるようになり、その後は日本のフラワーアレンジメント芸術「生け花」を勉強するために日本を何度か訪問しました。また、彼女の夫とともにトロントにおける日系文化会館の設立(1950年代)にも貢献しました。 (2005年2月15日)
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
日本へ来たきっかけ(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
教育界における女性差別(英語)
(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世
舌足らずの話し方を直してくれた先生 (英語)
民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)
民族研究の内情 (英語)
(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者
第2次大戦後の東京(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)
コミュニティ大学の教師として学んだこと(英語)
日本語学校 (英語)
日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)
ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)
二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)
仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)
アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)
渡日の理由(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)
日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
性別によるハパ・プロジェクトに対する反応の違い (英語)
映画製作者・アーティスト(1965年生)
戦後リマでの体験談(スペイン語)
ジャーナリスト(1937生)