https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/433/
和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)
(英語)僕がはじめて緊那羅太鼓を見たとき、日系人が太鼓を叩いていることはすぐにわかりました。それでも僕はそれをすんなり受け入れることができたんです。僕も関わりを持ちたかったし、演奏をとても楽しんだんです。僕が緊那羅太鼓の何を楽しんだかというと、グループの仲間意識ですね。マス1の哲学にもあるように、グループの中では誰かだけが良く出来て誰かが悪いということはないんです。みんなが貢献しなくちゃいけないんです。素晴らしい考え方です。それは1つの考え方に過ぎないのかもしれませんが、チームワークを構築するにはこの考え方はとてもいいんですよ。僕がみんなと一緒にいながら学んだことの一つがそのことです。みんなとても良くしてくれましたね。
僕はサンフランシスコ太鼓道場にも通っていたのですが、それはまた全く違う経験でした。道場の田中先生の指導方法について言えば、彼はとても...何て言うんでしょう。もちろん彼は日本育ちであるということもあるし、彼は武術経験者で野球もやっていた人ですから、彼はどんな風に道場を引っ張っていけばいいかよくわかっていたんですね。当時彼はサンフランシスコ太鼓道場を武術の道場のように運営していたんです。僕が田中先生の道場に通うようになったのは、入門の人気が2度目に高まった時期だったんです。彼は1968年に道場を始めて、僕が太鼓を始めたのは1975年なので、田中先生も時と共にだんだんと穏やかになっていったと思います。
でも僕が通い始めた頃は彼はまだ随分厳しかったですね。僕らは走ったり汗をかいたりしなければならなかったですから。たくさん大変なことがありましたよ。彼はよく「痛みなくしては得るものもないぞ」と言っていて、それは(彼の語録の)1つでした(笑い)。でももちろんそういうことは日本の文化の中にはあることなんですよね。人格的な鍛錬になるし、弱い人達は結果的に辞めていくんですよ。生徒達は試されてるんですね。
1. マサオ・コダニ: マサオ・コダニ開教使は浄土真宗の三世の僧侶で、アメリカで2番目に結成された初の日系アメリカ人仏教徒による太鼓グループ、緊那羅(きんなら)太鼓の共同創設者です。
日付: 2005年3月11日
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: ソージン・キム、アーノルド・ヒウラ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ケニー・エンドウ氏は国際的に知られた和太鼓奏者で、現在は太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(ハワイ州オアフ)の芸術監督です。カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ育った彼は、もともとジャズ、フュージョン、ロックバンドでドラムやパーカッションを叩いていました。1975年に組太鼓に出会ったのをきっかけに、太鼓を学び、ロサンゼルスの緊那羅(きんなら)太鼓やサンフランシスコ道場で演奏するようになりました。
1980年、彼は日本へ渡り、以後10年間、助六太鼓、諏訪太鼓、御陣乗(ごじんじょ)太鼓、秩父太鼓の先生のもとでそのスタイルを学び、邦楽囃子の名取りを許された初の外国人となりました。以後、さまざまなジャンルの音楽家たちと共演し、太鼓奏者としてまた太鼓の先生として国際的な活動を続けています。(2005年3月11日)
三世の太鼓への理解
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
桑港囃子 - 一世の人たちへ捧げる
手作りの太鼓
太鼓を通しての日本文化の再発見
サンフランシスコ太鼓道場の太鼓奏者・獅子舞
アメリカでの初めての太鼓パフォーマンス
太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)
日本文化の伝統としての太鼓の音
それぞれの太鼓グループの持つオリジナリティの重要性
アメリカに住むことの利点
太鼓コンテストを通して育まれるグループとしてのアイデンティティ
太鼓リズムの変化-日本的なもからアフロ・キューバンへ(英語)
ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。
田中先生と緊那羅太鼓の「太鼓」に対する考え方の違い(英語)
桜祭りでの太鼓演奏の欠如(英語)
緊那羅太鼓との出会い(英語)
太鼓とはっぴ(英語)
伝統的太鼓スタイル(英語)