https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/440/
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
(英語) 当時太鼓はまだとても珍しかったから、太鼓をたたく度にいろんな人達を魅了してたんですね。そして太鼓をやってみたいという人達も出てきたので、僕ももっといろんな音楽や太鼓を学ばなくてはいけない、と思ったんです。日本に帰ったときは、毎回アルバイトをしてお金を稼いでからアメリカへ戻ってましたよ。そして勉強、とにかく勉強という感じでしたね。また、毎回日本から太鼓を持ち帰ってましたね。
1969年に、高野山別院というリトルトーキョーにあるお寺で、長野県人会、つまり長野県出身者のグループが太鼓の演奏に呼んでくれたんです。覚えてる人いますかね?そこで緊那羅(きんなら)太鼓のグループと初めて会ったんです。このグループはアジア系アメリカ人のためのアメラジア(Amerasia)という書店を経営している人達で、僕が彼らに会ったのはこの時が初めてでした。
この人達は自分たちで独自の太鼓を手作りで作ってて、これには相当なカルチャーショックを受けましたよ。太鼓を手作りで作るってこと自体、僕にはない発想でしたからね。僕の頭の中では、太鼓は特殊な技能を持った職人によって作られるものだと思ってたでしょ、だからこれは画期的でしたね。革命ですよ。彼らは太鼓の革命児ですね。ワイン樽とか動物の皮を使ったりしていたんですね。彼らのそういうアイデアが無かったら(革命は起こってませんでしたよ)。伝統的な日本の太鼓と比べると劣るものも中にはありましたが、安く作れるし、僕は彼らがアメリカの太鼓の歴史を作ったと思ってますよ。日系人も、というかみんなが自分の太鼓を手作りで作ろうとすることがとっても大切なんです。
日付: 2005年1月27日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アート・ハンセン、ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
北米和太鼓の師、田中誠一氏は1943年生まれ東京出身の新一世です。千葉商科大学を卒業後、1967年にアメリカへ移住しました。移住当初はワトソンビルで苺摘みをするなど農業労働者として働いてました。その後、サンフランシスコへ引越し、1968年にはサンフランシスコの日本町で行われた桜祭りに参加しました。しかし、この時の桜祭りには彼が若い頃日本のお祭りで耳にした太鼓の音が欠けていました。物足りなさを感じた田中氏は、秋祭りの時に、友達で寄り集まり、地元のお寺から太鼓を借り、自ら太鼓を演奏したのです。以後、太鼓を学ぶために、幾度となく日本へ帰国し、そのつど日本で学んだ知識をアメリカの同志へ教えていきました。1950年代に始まった日本での太鼓復興をアメリカに持ち込み、1968年に北アメリカで初の和太鼓道場(学校)、サンフランシスコ太鼓道場を設立しました。以来、彼は何千人もの生徒を教えてきました。
今日、アメリカ・カナダには200以上の太鼓グループが存在しており、その大半はサンフランシスコ道場へそのルーツをたどることができます。田中氏は基本的な太鼓のリズムパターンや動きを教え続けていますが、その教え方は武道が基本になっています。また、彼の太鼓スタイルは、日本のお祭りの伝統に起因していますが、彼自身のアメリカでの体験も反映され、伝統的な太鼓のリズムにジャズ・ラテン・他のリズムなども融合されています。
彼は日本外務大臣表彰や National Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財) を受賞しました。(2005年1月27日)
音楽で表現する政治的メッセージ(英語)
ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)
アーティストとしての役割(英語)
太鼓リズムの変化-日本的なもからアフロ・キューバンへ(英語)
ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。
田中先生と緊那羅太鼓の「太鼓」に対する考え方の違い(英語)
和太鼓へのアメリカの影響(英語)
緊那羅太鼓の太鼓へのアプローチへ感謝(英語)
日系アメリカ人の庭師ダンス(英語)
環境を反映する太鼓音楽(英語)
伝統的音楽「雅楽」を演奏することによって形成されたアイデンティティ(英語)
太鼓から感じる力強さ(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督
自己表現としての太鼓(英語)
多様なメンバーを持つサンノゼ太鼓(英語)
日系アメリカ人の太鼓を日本へ(英語)
イギリスの太鼓グループ:グローバル太鼓コミュニティの形成(英語)
オリジナルの太鼓の型を発展(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)