ディスカバー・ニッケイ

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カナダ人ゆえに解雇(英語)

(英語) 私は軍から給料が出るアメリカ政府での勤務を志願しました。当時石油会社で稼いでいた額よりアメリカ軍から支払われる給料は桁外れに良かったのです。石油会社では、私は大体月に1万5千円稼いでいたのですが、アメリカ軍で仕事をしていた時は10万円、またはそれと同等額のUSドルを稼いでいました。軍の仕事には1年半従事していました。でもサンフランシスコ平和条約が発効されると、日米間の条約の下では軍の仕事はアメリカ市民だけができるという事になり、カナダ人の私は解雇されました。解雇された1年後、アメリカ軍と契約を結ぼうとしていた日本の企業で通訳として働きました。アメリカ軍の下で民間従業員として働いていた時の私の仕事は、朝鮮戦争の為の物資の調達に関わるものでした。


通訳 言語学者 アメリカ陸軍

日付: 2005年10月29日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: ノーム・イブキ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

語り手のプロフィール

ウィリアム(ビル)・タサブロウ・ハシズメ氏は1922年6月22日にブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。1939年、父を亡くした後、ビルは日本で教育を受けるため母と二人の妹とともに大阪へ移住しました。1941年の真珠湾攻撃ゆえに、ビルと彼の家族は日本に足止めされましたが、ビルは日本で学業を続け、1944年に神戸市立工業高等専門学校を卒業しました。その後まもなくして徴兵された彼は、日本帝国海軍に従軍し、1945年に海軍が解体されるまで士官を務めました。

戦後、ハシズメ氏はアメリカ軍の憲兵隊で通訳を務めました。カナダ政府は、真珠湾攻撃後日本に足止めされたり、1940年代後半に日本へ強制送還された日系カナダ人に対し、1950年代初期まで帰国を禁止していたため、ビルはカナダへ帰国することができませんでした。が、1952年カナダ政府より市民権を復権し、姉妹のいるトロントへ戻ってきました。

ハシズメ氏は55歳で技師としてひとり立ちしました。オンタリオのDepartment of Highways(高速課)で技師として雇用、65歳で退職しました。また、ブリティッシュコロンビア州ミッションの日系カナダ人史を研究し、本を執筆しました。現在、彼はトロントで活動的で健康な日々を送っています。(2006年8月23日)

Harry Schneider
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ハリー・シュナイダー

玻満子に対する家族の反応(英語)

アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)

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Harry Schneider
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ハリー・シュナイダー

日本での玻満子との出会い(英語)

アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)

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Harry Schneider
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ハリー・シュナイダー

天野氏と会う(英語)

アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)

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Harry Schneider
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ハリー・シュナイダー

結婚と帰国(英語)

アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)

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Susumu “Sus” Ito
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ススム・“スス” ・イトウ

イタリア人の気前のよさ(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

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Robert T. Fujioka
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ロバート・T・フジオカ

アメリカ軍に捕らえられた祖父(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)

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George Kazuharu Naganuma
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ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊で壁画や標識を描く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

子供の頃から父の通訳を務める

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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