ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/602/

女性として歌舞伎役者になることの苦難(英語)

(英語) 100ポンド(約45キロ)。踊りの衣装をつける前に100ポンドの(米)袋を毎日運びました。その位しないと、やっていけません。(衣装は)それ程重たいんです。【広げた衣装を軽く持ち上げ】ほら、持ってごらんなさい。重いわよ。その上、大きな簪(かんざし)をつけて、大きな下駄(をはいて)・・・この衣装の下にまた別の衣装を着ける。だから(重いものを)運ぶ練習をしなくてはならないのです。それが歌舞伎というもので、だから男の人のものなんです。女性には(容易に)出来ません。(衣装は)本当に重たいんです。

だから毎日米袋を運ぶ練習をして、まずどの位の体力があるのかを見て、それからこれ(衣装)を着けてみて、更に踊りのことを考えなくてはなりません。この重さ・・・やらなければいけないトレーニングが山程あります。この着物はダイイチ先生から頂きました。先生は私たちと一緒に住んでいたので、私たちに何かしたかったのでしょう。それでこの衣装を私たちに下さったのです。


芸術 ダンス 日本 歌舞伎 舞台芸術 劇場 (theater)

日付: 2004年11月30日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ナンシー・アラキ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

藤間勘須磨師匠(本名スマコ・ハマグチ)はカリフォルニア州サンフランシスコに生まれました。9歳のときロサンゼルスで歌舞伎を習い始め、その後ハワイの交換プログラムに参加しました。プログラム終了後、ロサンゼルスへは戻らず、斯界の歌舞伎役者6代目尾上菊五郎の元で学ぶために渡日。菊五郎の紹介で彼の師である藤間勘十郎のもとで藤間流を学びました。舞踊の基本だけでなく、三味線、鼓、演技、化粧なども学び、1938年藤間流の名取りを取得しました。

名取り取得後アメリカへ帰国し、父の経営するロサンゼルスのホテルでダンス教室を開きます。しかし、第2次大戦勃発ゆえに勘須磨師とその家族はアーカンソー州ローワーでの収容を余儀なくされました。少しして、政府より日本舞踊を教えることを許されたため、戦中はさまざまなキャンプで日本舞踊を教えました。戦後はロサンゼルスへ戻り、日本舞踊を教えるかたわら、自らの公演も再開しました。現在、彼女は2000人以上の弟子を持ち、その中の43人は名取りを取得しています。

1985年、日本政府より宝冠章、1987年にはNational Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財)を受賞しています。また、2004年に全米日系人博物館よりCultural Ambassador Awardを受賞しています。

2023年2月、104歳で亡くなりました。(2023年6月)

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タカヨ・フィッシャー

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日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)