https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/794/
ブラジル日本移民史料館館長
(ポルトガル語)私たち日系ブラジル人から、日本を切り離して考えることはできません。外見は日本人なのに、「日系ではない」なんて言えませんし、周囲の人々も社会も、私たちに「日系であること」を要求します。それに、「ちょっと、そこの日本人」なんて話しかけられることもしばしばです。そのように呼ばれる時は、その人は私たちの日系人の部分を見ている訳ですね。 ですから、私の人生のある時期において、若かった頃のことですけれど、自分が日系人だということを悩むこともありました。一般社会に出た日系人には、私の場合はブラジル社会ですが、皆と同じような「ブラジル人」になりたいと切望する時期があります。もちろん日系人であればこそ持ち得る、先祖から受け継いだユニークな資質や文化があることも事実です。そして、人生のある時期を迎えると、日系であることが、自分にとてもいい影響を与えてくれていることが分かるようになります。私の仕事は日系コミュニティと関わる仕事なので、そういう意味でも私と日系を切り離すことはできません。そしてそれは、どんな職種の人にも言えることだと思います。 私自身の経験から言っても、もし私が、自分自身から日系の部分を切り捨てようとしていたら、私は常に葛藤に悩まされていたことでしょう。若い頃から今まで、私の人生における最大の挑戦は、これら2つのバランスをとり、社会や文化に役立てる方法を自分なりに見つけることでした。
日付: 2005年10月7日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
セリア・アベ・オイは1950年イタペチニンガ市で生まれました。祖父母は広島市に近い阿多田島から1929年ブラジルへ移民し、農園で綿やジャガイモを栽培しました。両親も兄弟も同じく農業を続けました。1968年は歴史学を専攻し、1979年にカスペル・リベロ大学のジャーナリスム科を卒業しました。70年代半ばから、ニッパク新聞でポルトガル語で記事を書き始め、複数の新聞社などを通して、日系ブラジル人社会を紹介してきました。1998年からブラジル日本移民史料館の会長になりました。 (2006年7月26日)
太鼓演奏の哲学(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)
演歌歌手(1981年生)
ペルーでの子供時代(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
目立ちたくない外国人(英語)
在日三世・剣道家
人類全体への思いやり(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)
日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)
日本へ行くこと(英語)
アメリカ人になろうとした結果(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
歌詞の意味を伝えたい(英語)
ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)
和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)
東海岸とロサンゼルスの違い(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
アメリカの太鼓と日本の太鼓の違い(英語)
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)