ディスカバー・ニッケイ

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第18回 原爆の日を駆け回る

1945年8月6日、中国新聞の報道部長だった加藤新一は通勤途中、西広島駅近くにいて原爆の閃光を見て、すぐさま市内の中国新聞本社へ向かった。その時見たもの感じたことなどを記録、26年後の1971年に自ら発行人となった「平和競存の創造」のなかで「原爆地獄を往く 一老記者のピカドン体験記」として発表した。以下、その体験記を紹介しよう。

ピカドンの一瞬ピカっと青白い大せん光。つづいてドーンと大きくにぶい大轟音の一瞬。私は地べたに叩きつけられた——。

一九四五年八月六日午前八時十五分。私はあの世界人類が最初に体験した原子爆弾炸裂の瞬間、広島市の西玄関己斐(今の西広島)の宮島電車駅改札口から数歩の国道上に、朝の通勤ラッシュ、市内電車へ乗替えの長い行列の末尾で朝刊新聞に目を落としていた。

これは至近弾、あとの投弾を受けぬ間に——と勝手知った貨物駅入口から、すでに倒壊した倉庫の屋根を飛び越え、韋駄天のごとく山の手に向け走った。

敵機が油を撒いている——と叫ぶ声がする。まことポツポツ落ちている雨は黒くニチヤ、ニチヤしている。その朝は土用の最中で雲一つなかったのに大轟音とともに辺りが薄暗くなり、油に似た黒い雨。一人の兵隊が「油ではない。よごれた雨だ」という。麓の横穴に難をのがれ、東方の市内を見渡すと、全市から火の手があがり、眼前の藁にまで火がついている。

これは尋常なことではない。何か特殊爆弾だ!と叫ぶ声をあとにしながら、再び国道へ降り、草津から来た消防車へ「中国新聞だ」と腕章を示し飛び乗った。

己斐から草津へ向け避難する人々で国道は一パイ。口々に、「手当てをする場所は?」「お医者は何処に—」と救いを求め、火傷で赤くただれた姿、幽霊の如く両手を前に垂れ、あるいは頭髪が焼けちぢれ、子供を抱いた母親、老人を背負ってヨロメキながら歩ゆむ群れをかきわけ、逆に市内へ向かった。

福島町までで消防車は進まず、飛び降りて天満町に来たころ、倒壊家屋に火事が起り、それに西から強風が吹き、もう一歩も進めない。午前九時ごろである。

天満町北側、東洋製罐工場周辺の家屋疎開した広場に差しかかると、バリバリ燃える倒壊家屋の下敷きになった老母を「足がちぎれてもいいから」と若夫婦が必死に引っ張るのを手伝ったが、老母の姿が見えるのに、そのまま火焔の下になり、また若い母親が「この火の下に四才の子供が——」と泣き狂うのをどうすることもできず、生家の横川へ廻るべく、福島橋に戻り倒壊した古田喜三太代議士邸前で「古田さん、古田さん」と大声をかけながら、安芸女学校へ向け北上した。

天満町の川べり石がけには、全身火傷で歩行もできぬ全裸の男女が、北洋アザラシ、オットセイが岩礁に重なり合っているようにして砂上に転がり落ちている様は、全く生き地獄、川床には馬や牛、犬などの屍体とともに無数の焼屍体がゴロゴロしている。

福島町から北上の土手や両側、畑の中まで半死半生、あるいはすでに事切れた屍体やそれを看護する人々で、足の踏むところもない。

自分の生家が見える打越の土手にたどりついたころ、黒煙はもうもうとして近寄られそうにない。かかるうち、バケツをひっくり返したような大雨が北部一帯に降りはじめ、やむなく再び打越山の手、半壊家屋で雨宿り。小一時間後に小降を幸い、火事ですでに焼け落ちた横川一丁目の生家に辿りつき母親の安否を気遣い三〇分あまり焼跡を木切れで掘り廻した。(母は若い二人の弟妹を勤めに出し、野菜をとりに山手へ出かけ無事だった)

午前十一時。川向うの広島別院も焼け落ちたらしく、横川から寺町、十日市——と目星しい建物は何一つなく、全く、焼野原。三篠橋は中央が燃えているので、鉄橋を渡り、白島から常盤橋まで来ると、ここらは余り雨が降らなかったものか、焼け跡の焔がまだ残り逓信病院から八丁堀の電車通はとても熱くて近寄れない。

やむなく、タオルやシャツを川水でぬらして被り、めざす福屋から中国新聞社前へ走りつづけた。

しかし、この沿道は黒焦げ屍体や半死半生の被爆者やタイヤの燃えた自転車を飛び越えて進むのに一苦労。とくに首をもたげて「兵隊さん、水を——」断末魔の声をかけられるのを耳にしながら(ゆるして下さい。どうにもならぬのです)と心に詫びつつ走るのは断腸の思い。

正午十二時。福屋と中国新聞社屋は、外郭こそ、そのままだが、屋内は轟轟と音とたてて燃えている。万事休す。勧銀支店の石段に腰をかけ、汗をふいて一休みするうち、三々五々、そこは新聞社の社員、編集関係ばかりでなく、事務も印刷畑も集る。水主町県庁近くへ勤労奉仕に出勤していた佐々木伊勢治部長以下四〇数名の安否は?(二日後は自分が隊長の当番)

あれこれするうち、郊外府中町山本社長邸から社長命を受けた数名が、「宇品の陸軍運輸部に向け大阪の朝日と毎日に応援を頼む打電に行く」と走り去った。(爾後数ヶ月間は両者の新聞に中国の題字を刷り全購売者に代替発行し協力してもらった。)

社屋前で二、三十名の社員と「無事」を祝福し合ったが、おそらくその半数は原爆症の犠牲になったであろう。日ごろ親しかった松浦寛次(当時副主筆)、佐伯敏夫(後ち夕刊中国編集長)両君とは抱き合うようにして喜んだ。

午後三時。松浦さんは、女学校から勤労奉仕に出たお嬢さんが気がかりで小網町辺りをさがしたいと帰りかける。私も廿日市の平良村を朝出たばかりで安否を家族が気遣っていると思うのと、朝、ピカドンで国道アスファルトに叩きつけられ、数間を手と足でヨヂリ這ったので、ヒザ小僧(半ズボンに巻き脚絆姿だった)を赤くスリむいた上に、貨物倉庫の倒れた屋根をゴム地下足袋で飛び越えた時に数ヵ所釘でふみ抜きしていたのが痛みだし、共に八丁堀—紙屋町—十日町—小網町と西へ帰路についた。福屋から相生橋までは、日銀と住銀ビルが遥か左方に形を店、商議ビルが川ばたに残るくらいで、産業奨励館は見すぼらしい姿になっている。

それよりもひどいのは重傷で逃げられず、ついに黒焦げになった無数の屍体がゴロゴロと並び(はなはだ申訳ないが、朝からの惨死体馴れで、もうそのころはさほど感傷もなく、全くおそろしいことだ)顔をそむけるようにして足を引きずりながら西へ急ぐ。

相生橋の手前、今の原爆ドーム前の電柱に赤くただれた大男が針金でくくられ、往来する人々が何か言いながら煉瓦や小石を投げている。どうしたことかと近寄って聞くと「撃墜米機の米兵の一人だそうだ。こんなことでは腹の虫がおさまらぬ」とさらに何か投げつけている。気負い立った反米的群衆心理はどうする術もない。

小網町辺りの道端には大型セメント水槽が至る所にあり、逃げおくれた男女中学生たちが、熱さにたまらず、水をもとめて水槽に折り重なって赤くユデダコのように死に、なかには握りコブシを高くあげ、苦しみつつ絶息した凄惨な阿ビ叫喚は想像に絶するものがあった。

松浦君は「もう少し詳しく広く探して帰る」という。無理もない。そう言えば、私の一人息子も毎朝広島の日赤病院に通っていたが、どうしたか?と気にかかりはじめた。(松浦のお嬢さんも、私の息子も警戒警報で引き返し無事だった。)

私は一人で、今はビッコをひきながら、電車道(普通の道路は倒壊家屋が焼け落ちて通れない)を己斐に出て高須、古江を経て草津から運転中の電車(重傷でなくては乗せぬのを、新聞社の腕章が物をいい)に乗せて貰い午後六時すぎ、被爆難民救護にゴッタ返している平良村の我家に帰りつき、妻子はもちろん近隣の人々が心から「無事」を喜んでくれた。

広島市中心から十キロもある平良村の自宅も、ピカドンのために障子は破れ、ガラスはこわれ、二階の天井が吹きあげられて引きおろすのに骨が折れ、壁の土など畳の上に散乱し「原爆」の爆風力のすざまじさを今更の如く知らされた。

中国新聞報道部長(編集局所属各部を統合した戦時体制)だった私は、新聞こそ発行不能で取材活動はないにしても、西部軍司令部や県庁記者室の任務もあって翌八月七日からも自転車に白米を積んで「当分帰宅できぬかも知れぬ」と市内へ出かけ、銀山町角の芸銀支店に仮設の県庁並びに県警察本部を中心に行動をつづける傍ら、近親者の安否を探るなど、八月十五日の終戦の詔勅を経て、同二十日前後にアメリカ原爆視察団に同行したスイスの万国赤十字代表二名の案内、通訳に駆り出されるなど、連日、原爆生き地獄を右往左往したのであった。

弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って——」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。

いつもはアメリカ帰りで正確に午前八時に出社していた私が、前夜の取材活動(佐伯郡原村農協での広幅蒲蒔き麦の増産座談会に吉岡写真部長—今の広告局長——同道で)が晩くなり、宮島電車三、四台ほどおくれて己斐まで来てピカドンに遭ったため命拾いをした。また、もし生家の横川一丁目に住んでいたら、もちろん同八時には出社していたからお陀仏だったに違いない。

あのピカドン後に、近親者探しその他で入市した人々のうちにものち原爆症で死んだ人も多いなかに、上記の如く文字通り「原爆生き地獄を往く」血のにぢむ体験をしながら今日(七一才)まで生き伸び得たのはそれこそ「儲けもの」である。

平和活動に余生をささげ、憲法改悪など全人類の敵に命がけで斗い「戦争」は断じて阻止する所存である。

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※一部不適切な表現があるが、オリジナルのまま掲載した。

 

© 2021 Ryusuke Kawai

中国新聞 加藤新一 原爆 広島市 広島県 新聞 日本 第二次世界大戦
このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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