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テリー・タケウチさん/テリーズ・キッチン店主 ― その1

Terry at Terry’s Kitchen.

シアトルで生まれ育ったテリー・タケウチさんが手掛けるテリーズ・キッチンは、ベルビューにオープンして6年。地元の人たちがそれぞれの「おふくろの味」を目当てに集まります。あふれる地元愛、ロックダウン中の苦労、さらに強まった料理への思いなどを聞きました。

* * * * *

日系にルーツ、地域との強いつながり

新婚時代の両親シゲオさんとユキエさん1946年

祖父母は父方、母方、共に福島県出身。父親のシゲオ・タケウチさんと母親のユキエ・モギさんは日系2世だ。どちらの家族も第二次世界大戦中、それぞれミニドカとツールレイクの日系人強制収容所に送られた。

戦後、シゲオさんとユキエさんはセントラル・ディストリクトで新婚生活を始め、4人の男児をもうける。何度かの引っ越しを経て、やがてレーニアビーチに新居を構えた。

シゲオさんは、ボウリング場のインペリアル・レーンズなど、いくつもの職場を渡り歩いた。一方、母親のユキエさんは4人の子育てがひと段落すると、シーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)やYMCAに職を得て、最後はボーイング社で定年まで働く。

「父は家族を養うために必死で働いていましたが、子育てを一手に担った母の苦労は相当なもの。特に私はやんちゃ坊主で『テリブル・テリー』と呼ばれていましたから」と、テリーさんは当時を振り返る。

男兄弟4人の中で育つ左から本人ゲイリーさんリックさん前列はブライアンさん1960年

母親の作る手料理や、近所の友人宅で振る舞われる多種多様な郷土料理が大好きだった。「シアトル市内を転々としたおかげで、南部料理のガンボやBBQリブ、フィリピン料理のアドボなど、各コミュニティーでいろんな国・地域の味に親しめました」。

テリーさんたち兄弟は、父親の働くボウリング場で時間を過ごすことが多かった。ボウリングやビリヤードに興じ、あるいは友だちと遊び、併設するレストランで食事をした。「そこのハリー・イマムラさんの作るチャーハンが絶品でした。大人になっても決して忘れることはありません」。こうして、幼いテリーさんの味覚と料理への興味が育まれていった。

リトルリーグに所属する野球少年でもあったテリーさん。60年代半ばには、驚きのエピソードも。

「公園で練習をしていると、白塗りのリムジンから長身の男性が降りてきたんです。貧しい地域に住む少年たちに興味があったのだとか。気付いたら、彼がバッターボックスに立っていました」。

その人物こそカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)氏だった。ピッチャーのテリーさんは三振を取ろうと渾身の力で投球。しかし、バットが何度か続けて空を切ると、すかさずコーチがテリーさんを外野に移してしまった。

「今にして思えば、『世界最強の男』から三振を奪った、唯一の日系アメリカ人の少年になっていたかもしれないですね」と、悔しそうに笑う。

リトルリーグキャバリアーズのチームメートと1966年

テリーさんは、音楽活動にも熱心だった日系人を中心に組まれたシアトルインペリアルズ鼓笛隊に所属していた。下記が、そのころの写真だ。

シアトルインペリアルズ鼓笛隊、1969年

また、地元のRBバ ン ドTamarawでは、ホルンを吹いた。1970年代にはべレビューで、タワーオブパワーの前座を務めたこともあるという。

Tamarawバンド、後列右から2番目がテリーさん、1973年。


勤め人から、地元で愛されるレストランのオーナーへ

20代のテリーさんは、歯科技工士として短期間働いた後、シアトル・シティー・ライト保全部門に転職し、2014年に退職するまで勤め上げた。勤続31年の間には幾度となくポットラックなど社内の集まりが催された。「同僚たちは知らないうちに私の料理の味見係となっていましたが、誰も気付かなかったでしょうね」と、テリーさんは茶目っ気たっぷりに語る。

仕事と平行して、日系二世退役軍人会(NVC)の昼食会準備を手伝うようにもなっていた。皿洗いからスタートして、1年経つ頃には調理場を任されるまでに。食材の調達や下ごしらえ、調理など、大人数を相手にした飲食サービスを実践で学べる、またとない機会となった。ここからテリーさんは、徐々に料理の道に引き寄せられていく。

「調理のスキル以上に、もっと大事なことを学びました。私はようやく、第二次世界大戦で日系1世と2世が多大なる犠牲を払った意味を理解したんです」。ほぼ身ひとつで砂漠地帯に送られた強制収容や、ヨーロッパ戦線に赴いた442連隊での決死の戦闘も、日系人の未来を思えば耐えるしかなかった。

「私の家族や親戚は多くを語りませんが、そうした日系人の苦難はアメリカの歴史の一部です。後世に伝えていかなければなりません」

毎週、仲間とボウリングに出かけては、ビーコンヒルにあるレストラン、サウス・チャイナ・ペリー・コーズで二次会となるのもお決まりだった。後に共同経営者となる同店オーナーのシド・コーさん、ダン・コーさん兄弟と出会ったのも、この場所だ。2004年に同店がベルビューに移転してからも、テリーさんは客として通い続けた。やがて、大きなイベントがある際は調理場の手伝いをするまでの仲に。この経験から、テリーさんは厨房の切り盛り、フロアと厨房のスタッフの意思疎通、大量の仕込みの要領などを覚えていった。

4兄弟での近影左からゲイリーさんリックさん本人ブライアンさん2017年

同店は惜しくも2014年に閉店。テリーさんは名物だったガーリック・チキンウィングの味を忘れられず、また、仲間と語り合える場を恋しく思っていた。そんな時、テリーさんにある考えが浮かぶ。帝みかどレストランなど、閉店してしまったお気に入りの日本食レストランの品々を思い出しながら、「自分が子どもの頃に食べていた、あの味を提供すれば、多くの人に喜んでもらえるのではないか」とひらめいたのだ。そこで、旧知の友人でレストラン・コンサルタントのテイラー・テラオ氏の協力を得て、インペリアル・レーンズのチャーハンやサウス・チャイナ・ペリー・コーズのガーリック・チキンウィングなど、人々の食の記憶を呼び起こすような「懐かしの味」のレシピ作りを始めた。

そして2017年7月、ベルビューのニューポートヒルズにテリーズ・キッチンをオープン。ビジネス・パートナーのキャシー・ミヤウチ氏を始め、多くの出資者、支援者が集まり、腕利きの料理人、フレンドリーなフロア係など有能なスタッフもそろった。開業に漕ぎ着けられたのは、そうしたみんなの力があってこそ、とテリーさんは言う。

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*本稿は、「北米報知」(2022年3月26日)に掲載された英文からの翻訳で、2023年6月7日に「Soy Source」に掲載されたものにわずかな変更を加えたものです。

 

© 2022 Elaine Ikoma Ko / The North American Post

Seattle Terry's Kitchen Terry Takeuchi