ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/author/tanaka-yusuke/

田中 裕介

(たなか・ゆうすけ)

@discovernikkei2021511

札幌出身。早稲田大学第一文学社会学科卒業。1986年カナダ移住。フリーランス・ライター。グレーター・バンクーバー日系カナダ市民協会ブルテン誌、月刊ふれーざー誌に2012年以来コラム執筆中。元日系ボイス紙日本語編集者(1989-2012)。1994年以来トロントで「語りの会」主宰。立命館大学、フェリス女学院大学はじめ日本の諸大学で日系カナダ史の特別講師。1993年、マリカ・オマツ著「ほろ苦い勝利」(現代書館刊)により第4回カナダ首相翻訳文学賞受賞。

(2020年3月 更新)


この執筆者によるストーリー

日系カナダ人強制収容から80周年
第3回 カナダ日系社会と「大本営発表」

2022年5月9日 • 田中 裕介

第2回 >> 第一次世界大戦の後、日本は国際連盟に加盟し、日英同盟は破棄された。日英同盟の延長に関しては、英国自治領カナダの執拗な反対があった。カナダは英国から距離を置き自治権を強化し、安全保障のために米国との友好関係をより重視するようになったのである。 すでに、日本の経済力と軍事力の増大や露骨な拡張主義は、西洋列強の脅威となっていた。彼らの警戒心が人種差別意識によって増幅され、その矛先が北米の日系社会に向かったのは当然の帰結だったかもしれない。 1920年代、BC州…

日系カナダ人強制収容から80周年
第2回 「男のみ」の移動から「総移動」へ

2022年5月2日 • 田中 裕介

第1回 >> そして、真珠湾攻撃の後、1942年1月、カナダ政府は、18歳以上45歳未満の日系人男子を道路建設キャンプに送ると発表した。当時44歳のボーディング・ハウス(下宿)経営者・川尻岩一(かわしり・いわいち)がそのキャンプ・リーダーであり長老格だったが、彼の知力と胆力は特筆に値する。彼は鳥取県人30数名をまとめて3月12日、総勢108人が道路キャンプへ向かった。 「男子が移動すれば、あとの日系人は移動しなくてよいと言って騙した人がいるのです」。「騙した人」とは…

日系カナダ人強制収容から80周年
第1回 日系人はこうして戦争に飲み込まれていった

2022年4月25日 • 田中 裕介

日系アメリカ人にとって、大統領令第9066号が発令された「1942年2月19日」は、忘れてはならない「Day of Remembrance」。日系カナダ人にとっては、内閣令第1486号「1942年2月26日」がそれに該当するだろう。今年は日系人の強制収容から80年目である。日系カナダ人社会が、どのようにして戦争に巻き込まれていったのか、一世と二世リーダーたちを中心に読み解いてみたい。 * * * * * 1941年12月7日朝、真珠湾攻撃が日系人の日常をひっくり…

お一人様お節テーブル

2022年2月10日 • 田中 裕介

Delta からOmicronへ。2021年も、コロナ感染の渦中に飲み込まれたまま光陰矢の如しでした。 春、コロナ禍で職を失ったうちの家主が、家を売ると言い出し、「おっとー!俺もとうとうホームレスかあ!?」 と騒いだら、友人のソーシャル・ワーカーが「すぐにコミュニティ・ハウジングに申し込め」と言って申請を手伝ってくれた。数ヶ月後、ダウンタウンのド真ん中、CNタワーの麓、中華街の隣、オンタリオ美術館の裏のアパートに落ち着きました。ここは百年前にはThe Wardと呼ばれ…

GHQ占領下の日本のエンターティナー: 日系カナダ人二世の俳優・歌手 サリー・中村哲

2021年6月9日 • 田中 裕介

真珠湾攻撃(1941年)が起きた時点で、日本国内には1500名ほどの日系カナダ人がいたという(Ken Adachi, The Enemy That Never Was)。帰国の道を閉ざされた彼らの多くは「敵性国人」と疑われ、官憲から執拗に日本籍への変更を求められた。日本兵として出征した元バンクーバー朝日の選手に、和歌山の野田為雄(戦死)、広島の中西憲(戦傷)等がいる。 一方、二世の英語能力を活かして報道関係の仕事に就いた二世カナダ人が、少なくとも数人はいた。ブリティッ…

アルバム「介護記憶曲集」-あるカナディアン・ジャパニーズ一家の「記憶」が住む家-

2021年2月23日 • 田中 裕介

日本語の動詞「すむ」は3つの意味を持っている。「住む(TO LIVE)」、「澄む(TO BECOME CLEAR)」、そして「済む(TO FINISH)」である。この3つの動詞は語源的には一つの動詞から派生して生まれた。3つの動詞を並べてみると、過去・現在・未来という一つの時間の流れが見えてくる。それは「動態」から「静止」へと緩やかに下降してゆく。ある場所に住み、心が澄み、そして人生が済むのである。人はこれを「大往生」と呼ぶ。 2019年7月、94歳で逝去したカナダ人…

バンクーバー朝日軍の投網に手繰り寄せられた選手とその末裔

2021年1月14日 • 田中 裕介

シリーズ「勝敗をこえて:ニッケイスポーツ」へ投稿された嶋洋文氏の「バンクーバー朝日投手、土居健一と家族の物語」を読んだとき、過去30年にわたる「朝日軍」とのお付き合いの日々が走馬灯のように巡ってきました。これは、その思い出をまとめた回想録です。 * * * * * 朝日軍伝説の嚆矢となったのは、1992年に出版されたパット・アダチ著『ASAHI: A Legend in Baseball』でした。ある日、パットさんが僕の日系ボイス編集室を訪れ、「ちょっとお願いがあるので…

絆2020:ニッケイの思いやりと連帯―新型コロナウイルスの世界的大流行を受けて
感染病の流行と日系カナダ人コミュニティ

2020年10月23日 • 田中 裕介

1918年に猛威を振るったいわゆるスペイン風邪のパンデミックは、2年にわたり断続的に続いた。世界中で5億人が感染し、5千万人の命を奪ったといわれている。感染爆発の最初の犠牲者は第一次世界大戦時に戦場で闘った兵士たちだった。兵隊たちが戦場から郷里に復員してきた時にウィルスが拡散し、世界中で大流行したのである。カナダも例外ではなく5万人が亡くなった。 一方、日系人に対する差別は第一次世界大戦中(1914〜1918)は多少緩和されていたようだ。これは多分に、日英同盟の条約に従っ…

戦前のスポーツ大好き二世たちの青春: 「今」を映した宮西正三のカメラアイ — その2

2020年3月6日 • 田中 裕介

その1を読む >> 「テニング」と名乗った日本人 「テニングさん」と呼ばれているのは、竹内十次郎(1869〜1937)という三重県桑名市出身で海軍主計学校を首席で卒業し、英国駐在大使館付の武官として1898年にロンドンに赴任した元海軍少佐のことだ。日本海軍が日露戦争に備えて英国で軍艦建造を急いでいた時、使途不明金が発覚した。軍法会議において、33万円(今に換算して約30億円)の欠損を生じさせたとして、竹内は懲役11年の判決を受けた。1904年にカナダへ亡命した竹内は…

戦前のスポーツ大好き二世たちの青春: 「今」を映した宮西正三のカメラアイ — その1

2020年3月5日 • 田中 裕介

1930年、バンクーバー朝日軍はターミナルリーグで2度目の優勝を遂げた。以後、朝日軍の快進撃は続き、1938年から3度続けてバラードリーグでの優勝をさらった。だが、そこで真珠湾攻撃が起きて万事が休した。そして、選手たちは道路キャンプ、ゴーストタウン収容所、あるいは戦争捕虜収容所へと去っていった。当時の日系社会は野球熱にうなされていた。ふりかえると、それは世界恐慌で始まり戦争に飲み込まれていった10年だった。日系漁民は漁労免許を取り上げられ、日本帝国軍が中国の奥深くへ侵攻する…

ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら