鮫島等 (さめしま・ひとし)
Licensing |
全米日系人博物館のボランティアドーセントとして、自分の体験を語るときに示す写真
Slides in this album |
|
1944年6月7日撮影1942年4月、アリゾナ州のヒラ・リバー収容所への移動命令:汽車で運べるだけの荷物の携帯に限られ、一家は短期間に家財道具や自動車を二束三文で手放した。 ヒラ・リバーの収容所はにわか作りの砂漠の中のバラック。当初は女性用トイレのドアがなかったので、姉は暗くなってからひっそりブランケットを持って行っていた。明治生まれの両親から日本的にしつけられたとはいえ、アメリカで生まれアメリカ市民としての教育を受けてきたのだから、プライバシーのない収容所生活に耐えるのは苦痛だった。しかし、小学5年生のクラス教師として働きながら、大学卒業の志は持ち続けた。 1942年末には戦況優位が明白になり、米国政府の規制が緩和し始めた。等は単身、デンバー州コロラドのデンバー大学への編入が認められた。 |
日系米人の仲間真珠湾奇襲をラジオで知ったときには「ドラマか…、」と疑うほど驚いた。 |
1945年、MSIでの猛勉強1944年7月、等に召集令状が届いた。赤貧の中で寝る間も惜しんで清掃員の仕事と学業に努め、5週間後には卒業できるはずという時だった。しかし、入隊までの猶予は10日間。「繰り上げ試験で失敗したら在学中の単位も失うぞ。」と反対する学部長に頼んで繰り上げ試験を受けさせてもらい、あわただしくテキサス州の訓練施設に向かった。(卒業試験に受かったことが等の耳に届いたのは日本への駐留を終えてアメリカに帰国したとき) |
1945年、高射砲日系二世の召集兵は、自分たちの親を2等級の国民としか扱っていない米国に対して無条件の忠誠を求められた。平等に扱われるべきなのに敵の顔をしているという理由で差別する祖国に対して矛盾を感じながらも、等は442部隊への配属を希望。しかし、日本語が話せるという履歴書の記載に目を留めた上官から、ミネソタ州に新設されたフォートスネリングの陸軍の日本語学校に行くように指示された。戦後処理に備えて日本語のできる米国軍人を育成しようと開設されたミネソタ学校からは約6000人(内4500人が日系二世)が卒業した。(MISLS:米国の秘密兵器として日本軍の暗号解読,押収文書の翻訳,捕虜の尋問を通して得た情報は後に「100万人の米兵の生命を救い、戦闘の終結を2年早めた」と、マッカーサー元帥から評価された)教師は日系一世と帰米二世で、日本の歴史や文化,草書の読み書きまでが短期間で厳しく指導された。日本軍の旧式の装備や戦況が手に取るように分かった。父親に「日本は負けるかも…」と言うと、「何を言うか。日本には大和魂がある。勝てないはずはない。」という言葉が返ってきた。 1945年8月、フィリピンのルソン島で日本人捕虜の尋問の任務に就いた。どんな質問にも固く口を閉ざし戦争が終わったことすら認めようとしない日本海軍の水兵に対し、等は藁にもすがる思いで「♪あなたと呼べば、あなたと答える…」と、仏教青年会の芝居で聞き覚えていた歌謡曲を口ずさみ、やっと日本兵捕虜の心を開くことができた。その兵士は、等の次の赴任地・東京の様子を懐かしそうに語り始めた。等は東京大空襲の状況を知っていたが、故郷の美しさをとうとうと語る彼になにも明かせなかった。 |
第8軍司令部配属1945年10月9日、等は横浜港に着いた。しばらくして横浜税関の建物を撤収して設けられた第8司令部の配属となり、B級戦争犯罪人の聴取の通訳に当たった。巣鴨刑務所に収容されている日本人将校や九州帝大での米兵生体解剖事件の関係者などと会う日々が続いた。「麗しの祖国、大和撫子の国…」と聞かされて初めて土を踏んだ日本の混迷の様子に胸が痛んだ。
1945年、横浜にて |
横浜裁判所の前にて日系米兵の多くは日本に親戚がいた。等も鹿児島に住む従姉妹たちを訪ねたり日本各地を見て歩いたりする中で日本の敗戦を実感した。 カリフォルニアの日本語学校の恩師から義理の妹、歌子を紹介されたのもこの頃だった。「先生のお宅に伺いたくても、僕が行けば乏しい配給の食べ物を出してくださるのが申し訳なくてね…」 |
1947年、皇居の二重橋1948年11月、一生の伴侶、歌子を伴って帰国。ロサンゼルス郡の公務員試験を受けた。成績は1番だったが、そのとき採用されたのは3番目の成績の者。1949年(28歳の年)の3回目の受験で採用が決まった。仕事と平行して、かつて在籍した南カリフォルニア大学の大学院でも学んだ。 若い頃から陸上や剣道で鍛えた体力も気力も、のんびり引退するには若かったので、1983年からはオプティミスト・クラブの活動に参加し、アルコールやドラッグに溺れる若者の更正を助けた。苦労して夜学に通い、戦争という一個人ではどうしようもない戦時を生き抜いた等にとって、物質的に恵まれた環境で挫折していく若者の姿は看過できるものではなかったのだ。 1990年からは全米日系人博物館の創設ボランティアとしての活動を始め、募金活動では9人で総額15万ドルを集めた。
1947年皇居の二重橋前 |
Part of these albums
鮫島等、1929年の家族写真LAxSachi |