1 移民を授業する - 日系アメリカ人の記憶から学ぶ: ソウジロウ・タカムラ(高村總二郎) さん
Licensing |
日本の学校で使用する教材作成のために、ハワイプランテーションビレッジでボランティアガイドをしているソウジロウ・タカムラさんにインタビューをしました。真珠湾攻撃時の体験、三兄弟が日米に分かれて従軍することになってしまった悲劇、戦後のGHQでの活動などについて語ってくださりました。プランテーションビレッジで日本からくる若者にたくさんのメッセージを伝えています。 >> インタビュー記録の印刷 (PDF) © 2008 多文化社会米国理解教育研究会
Slides in this album |
|
真珠湾攻撃の日12月7日の朝6時頃,ラナイ島で積荷を降ろして船でホノルル港に戻ったの。それから8時頃,カイルアで野球をする約束をしていて仲間をのせて車で野球場に向かった。その時カネオヒの基地にむかって空軍機が射撃している様子が見えて, 「今日も演習かな」と思いましたね。ところかが, ラジオで「This is a real McCoy! Not a sham battle!」(これは本当の攻撃だ! 演習ではない!)と繰り返されるのを聞いて驚いたよ。出会った米兵に家に戻るように言われて慌てて家に戻り,屋根によじ登って真珠湾の方を見たの。そうしたら煙がもうもうとあがっているのが見えましたよ。
The "Day of Infamy" - a Turning Point for these Women |
アメリカ軍へ入隊ぼくは1944年に入隊して軍事情報局に入った。そこには日系二世が集まって,朝6時から夜の8時まで日本語猛特訓をした。教材は普通の日本語だけでなく日本軍言葉や書類だったの。終戦時にはフィリピンのマニラにいて,前線で日本軍の通信傍受翻訳や書類翻訳をしていました。同じ 仕事をしていた二世の仲間で戦死した仲間もいた。それかが運命。仕事の担当がぼくだったら僕が戦死していた。終戦直後,マニラで偶然の出来事が起こって,戦争前に日本に行って二世と結婚した姉の夫が日本軍属の通訳としてマニラにいたの。彼がそっと姉の旧姓のタカムラを知っているかとぼくに聞いたから驚いた。二人とも感激したけれど,当時敵味方の立場だから複雑だった。姉の消息と住所だけ確認できたからよかった。それからぼくは横浜に行った。戦艦ミズーリの上で日米が調印した時,アメリカ軍として通訳の仕事をしていた。1945年9月6日に東京に入って, GHQで戦後処理の仕事をしたのね。 |
家族の運命ぼくの兄はハワイ大学を卒業してから早稲田大学に留学をしていたの。二重国籍をもっている兄は日本軍に招集されて,沖縄で戦死した。この話はあまりしたくないの。1940年にハワイで兄と別れてから会っていないし,戦争になってからは音信も途絶え,どんな気持ちで最後を迎えたか想像できない。大学教育まで受けたアメリカ人なのに。 注)Photograph contributed by Bill Watanabe. Names of people: Katsuye Furayama, Densaku Furayama, and two members of the Watanabe family. |
ハワイのプランテーションビレッジでボランティア今はハワイのプランテーションビレッジで日本からのお客さんにボランティアでガイドをしています。日本の若い人たちの中に同じアジアの国や人に対して軽んじている雰囲気をたまに感じるの。おかしいね。ハワイでは肌の色もいろいろあり、ルーツもいろいろだけれどみんな平等。 |
ソウジロウ・タカムラ (高村總二郎)1920年ハワイ州オアフ島ホノルル生まれ。 |