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空港勤めの仕事は、週末がないこともしばしば。そして1966年には息子が誕生し、敏幸、妻のみどりの生活は一気に忙しくなっていく。そんな中でも敏幸は時間があれば庭に出て一人で柔道の練習を続けていたという。1967年にはソルトレイクシティーで世界選手権大会があり、アメリカ代表として出場した敏幸は4位に入賞する。「最後に大会に出場したのは1970年ですね。その時は僕も30歳になっていました」。最後のUSナショナルチャンピオンシップでは、階級別で2位と有終の美を飾った。その後は各地の道場で柔道の先生として後進の指導にあたってきた。
一方で、カウンター業務から始めた日本航空(JAL)の仕事では、日米両方の言語と文化に精通した敏幸はめきめきと頭角を表し、重要な役職を任されていくことになる。1978年には、日本人ブラジル移住70周年を記念し、当時の皇太子同妃両殿下がブラジルをご訪問になる。その訪問に際してはJALの飛行機2機がチャーターされたが、行く先々で待機し、訪問が滞りなく進むよう手配するスタッフの一人に敏幸も選出される。
「僕はロスからマイアミに飛んで、そこからブラジルに。飛行機が着く前に先回りして、機内食などを準備するのです。サンパウロではたまたま僕の母の家族で移民で行っている人がいて、そこに行って一緒に食事をしたのを覚えています」。
その皇太子同妃両…