ディスカバー・ニッケイ

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荒波を立てるな (英語)

(英語) (政府に対する補償請求を発案した)私たちは、まず日系人を教育するため、2日間の講座を設けました。しかし、問題がありました。日系人は、強制収容に至った経緯が、合憲かどうかを理解することができていなかったのです。結果的には、この人たちであれば全く問題なく理解してもらえるだろうと思っていた人たちに、納得してもらうのに一番苦労させられました。本当に驚きましたね。その人たちこそ、利口で、憲法やその種のことを充分理解できるに違いないと思っていたわけですから。彼らは、ヒラバヤシ(対アメリカ合衆国)裁判もきちんと理解していました。ですから私としては、彼らはこの計画を支持してくれるだろうと考えていたのです。でも蓋を開けてみると、全く正反対でした。

反対意見としては2つありました。1つは、私たちが無用に事を荒立てようとしているんだという意見。過去に我々が蒙った被害に対して米国議会に対して損害賠償を請求するなんて事は、もっと充分に議論を尽くしてからでなければ駄目だと云う考え方で、そんなことをしたら、日系人は信用をなくし、評判を落としかねない、というものでした。そしてもうひとつは、金銭の請求をするなんて、日系人の品位を傷つける行為だ、というものでした。


日付: 1999年10月14日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・ミヤタケ氏は、1929年ワシントン州シアトルに生まれました。第二次世界大戦中まだ10代であったミヤタケ氏は、ピュアラップ集合センターに拘留され、その後アイダホ州ミニドカに強制収容されました。強制収容所でミヤタケ氏は、米国政府によるマイノリティの扱いを批判する論文を書き、その主張の正当性を訴えましたが、教師は論文の受け取りを拒否し、合格点を与えなかった為、ミヤタケ氏は卒業することが出来ませんでした。

当初、彼の考えは急進的なものでしたが、ミヤタケ氏は、70年代前半から始まった補償請求運動の最初の発起人の1人になりました。他の数名の日系人と共に、米国政府に対し、強制収容された日系アメリカ人への補償を求めるため、日系アメリカ人市民同盟シアトル支部にその計画案を準備したのもミヤタケ氏でした。

しかし1978年11月25日にピュアラップ集合センター跡地で開催された最初の「追憶の日」のイベントまでは、ミヤタケ氏の努力は、日系コミュニティから反発を受けていました。ミヤタケ氏が参画し、開催にこげつけたこのイベントは、過去の不正を正すために組織されたその後の補償請求運動において、日系社会を大いに活気づけるものでした。

ミヤタケ氏は、2014年9月16日、85歳で亡くなりました。(2015年4月)

クリフォード・ウエダ

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