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第23回 カナダ移民の先駆け、永野萬蔵 — 長崎県・口之津でその足跡を知る

口之津歴史民俗資料館・分館

一昨年の夏から、私は断続的に日本の海岸線に沿って車で旅をしている。北海道、東北からはじめ、昨年は北陸、山陰、そして九州をぐるりと一周してきた。

島国の日本では、かつて外国へは海路を頼っていくしかなかった。反対に外国から日本へ来るにも同じことであり、その意味で日本の海岸線には、港はもちろんのこと海外との交流の痕跡がいくつも残っている。

昨年11月から12月にかけて九州の海岸線を車で走ったときのことだ。福岡県から反時計回りに進み、5日目に長崎県の島原半島を南下した。中央には雲仙岳がそびえ、半島東側には、江戸時代初期に起きた農民一揆である島原の乱の主戦場となった原城跡がある、その島原半島の突端に口之津(南島原市)という港まちがある。

雲仙や原城に比べると知名度は低いが、この海に開いた口之津は歴史的に見て、特殊な役割を果たした地であった。口之津の港は大型船が入るほど深く、また周囲の山によって暴風は遮られ、東シナ海からは船が一直線に入ることができるといった利点から貿易港に適していた。

古く16世紀には、ポルトガル船が度々入港し、生糸や絹織物をもたらした。また、同時に商人やキリスト教の宣教師らが乗船してきた。物や人が行きかい、まちは交易の拠点となりにぎわいをみせた。

明治時代には、石炭の積み出し中継港として栄えた。当時三池炭鉱の石炭は、三池港に大型船が入れなかったため、小型船で口之津へ搬送され、一旦陸揚げしてから大型船に積み替えて輸出するという方法がとられた。宿屋、商店、飲食店が軒を連ね県外からも商人が押し寄せた。

石炭の積み出しには、荷役作業など多くの労働力が必要だったが、このときその供給源となったのが奄美諸島の与論島だった。与論島と隣りの沖永良部島は1898(明治31)年に台風で壊滅的な被害をうけ、生活に困った住民が鹿児島県と三井物産の“仲介”によって集団で口之津へ移住した。

その後、新たに三池港が完成すると、中継の必要はなくなり、一部の者を除いて与論出身者は口之津を離れコミュニティーも解体していった。私は、拙著「『十九の春』を探して」のための取材で、与論の人たちの間でも歌われた「十九の春」とおなじメロディーの歌について調べるため17年前に口之津を訪れた。


郷土の偉人として

このとき海沿いの「口之津歴史民俗資料館」に足を運び、当時の館長の原田建夫さんに話を聞くなどして、こうした事実や、明治時代に「からゆきさん」として貧しい家の女性たちが、口之津の港から出港した石炭運搬のイギリス船などのに乗せられて東南アジアへ売られていったことを知った。

しかし、今回再び訪れてこれまで見落としていた歴史的な物語にきづいた。それが口之津出身で、明治時代最初にカナダに移民した永野萬蔵という人物のことだった。いまは、歴史民俗資料館・分館となった当時の資料館に、萬蔵についての展示があった。この萬蔵もまた、海外へと開かれた地、口之津が生み出した郷土の偉人だった。

展示されている、永野萬蔵の資料

1855(安政2)年生まれの永野萬蔵は、カナダに移住したのち、日本の民芸美術品店の経営や塩漬け鮭の輸出などで大成功し、カナダのヴィクトリアに豪奢な自社ビルを構えるまでになった。しかし、そのビルは火災に遭って消失、財産を失い、晩年は結核におかされ最後は故郷の口之津に戻り療養、生涯を閉じたということだった。

展示には、経営していた店の写真などカナダでの活躍を思わせるものや、萬蔵の子孫が口之津を訪れた様子をおさめた写真などがあった。

この永野萬蔵という人物は、どのような経緯でカナダにわたり、どんな足跡を残してきたのか。これについては、現地の邦人紙などに残された記録があるようだが、まとまったものとしては『カナダの萬蔵物語 The First Immigrantt To Canada』という本に記されている。

1977年東京の尾鈴山書房から出版されたこの本の著者は、森研三と高見弘人の二人で、萬蔵の子孫へのインタビューやヴァンクーバーに上陸した初期の日本人移民、あるいは帰国後に萬蔵が暮らした口之津での家など、当時の写真もところどころに掲載されていることから、かなり取材したうえでまとめられたと思われる。


外国船で働きやがて上陸

本書の内容に沿って、また展示などを参考に、以下、萬蔵の生涯をたどってみる。江戸時代末期の1855年に口之津で、父喜平、母タネの4男として生まれた萬蔵は、物心つくころには外国で働きたいと思うようになり、19歳のときにイギリス船に乗組員見習いとして乗船、口之津を離れた。

この船は、上海から香港、そして安南(ベトナム)、タイ、セイロン(スリランカ)、インドを2,3回往復したのち、アメリカを経由して1877(明治10)年5月にカナダのブリティッシュコロンビア州、ニュー・ウェストミンスター港に入港した。ここで萬蔵は、カナダに上陸する決心をし、中国人に混じって密入国を図り、成功。

しばらくして萬蔵はイタリア人と組み鮭漁をはじめたのち、ガスタウン(のちのヴァンクーバー市)で荷役の仕事についた。1884年には、カナダ太平洋鉄道の工事に従事する労働者として、中国からチャーター船で中国人500人をカナダに連れてきた。船乗りとして海外事情に精通していた萬蔵ならではの仕事とみられる。

1887年、今度はアメリカのシアトルに行き、貯えをはたいて「たばこ屋」を開いたところうまくいき、続いて大衆向きのレストランを開業して成功をおさめた。このあと横浜で開いたレストランは失敗に終わったが、1892年にはカナダに戻りヴィクトリアで「日本民芸美術品店、兼雑貨店」とホテル業をはじめ軌道に乗せた。

永野萬蔵が当時経営していた商店


塩鮭・キング

さらに翌93年には、塩鮭の製造・輸出に乗り出すとこれが大成功し、のちに「カナダ大尽」「サモン大尽」あるいは「塩鮭・キング」と呼ばれるようになった。1911年にはヴィクトリアに3階建ての自社ビル「永野萬蔵商店」を構え、地元の日本人倶楽部の会長などを務めた。

こうして成功の階段を昇りつめたのだが、先に記したように自社ビルが全焼、保険に入っていなかったため財産を失い、さらにその2年後に結核が悪化したことで口之津へ帰り、病床についた。そして1924(大正13)年5月、その生涯を閉じた。

1977年、萬蔵がカナダに来てから百周年を記念して、ブリティッシュコロンビア州にMt. Manzo Naganoと命名された山が誕生したという。

萬蔵には二人の息子がいたが、いまやその子孫は5世代に広がっている。カナダの男子フィギュアスケート界で活躍したKeegan Messing(キーガン・メッシング)は、そのひとりである。

 

© 2023 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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