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シカゴの女性宣教師と日本人女性たち - その2

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菱川やす(写真提供:Records of the Women's Union Missionary Society as archived at the Billy Graham Center)

長老派のサラ・カミングスに導かれて、1886年にシカゴにやってきたのが菱川やすである。1871年に婦人一致海外伝道局が横浜に開いたミッション学校(The English Speaking School for Japanese Young Ladies — のちの横浜共立学園)を卒業したやすは、金沢でサラの手伝いをしながら、医学の手ほどきを受けた。シカゴでは、サラの母校、シカゴ女子医科大学に入学、1889年に卒業した。専門は婦人科と小児科だったやすは、卒業後すぐには帰国せず、シカゴで孤児たちの施設(Foundlings Home)に住みこみ、研修を積んだ。やすは、1890年にイリノイで医師免許をとった最初の日本人女性である。

森静子は、神戸英和女学校を1889年に卒業後、1891年7月、18歳で渡米した。カリフォルニアで2ケ月を過ごしたあと、1891年秋にノースウェスタン大学に入学、教養学部で近代文学を勉強した。1893年にシカゴで開かれたコロンビア博覧会では、事務局で、日本からやってきた審査官の通訳や翻訳作業に関わった。

神戸英和女学校の第一回(1882年)卒業生12人のうちの一人、甲賀ふじが初めてシカゴにやってきたのは1890年9月だった。東部の保母養成所で幼児教育を学ぶために1887年に渡米、日本への帰国途上で立ち寄ったのである。日本に帰国後、ふじが最初に仕事をしたのがアニー・ハウの頌栄幼稚園だった。再渡米した1905年には、シカゴ大学の教育学部に籍をおいた。

1890年8月末、ボストンから戻ってくる甲賀ふじと待ち合わせるかのようにしてシカゴにいたのが塚本富士である。 富士は、1886年に神戸英和女学校を卒業し、母校で教えていたが、ペンシルバニア州のウィルソン・カレッジ(Wilson College)に留学することになり、イリノイ州リッジランドにあるアニーの妹宅に立ち寄っていた。

同志社女学校のメリー・エレン・ウェインライトの音楽教育のおかげで、音楽の勉強をしようとイリノイにやってきたのが林外浪(となみ)である。外浪は同志社女学校を1888年に卒業、1892年に英語と音楽修業のための留学許可証を取得した。外浪は、まずウェインライトの母校、アイオワ州のテーバー・カレッジ(Tabor College)の予備クラスで二年間学んだあと、ロックフォード女学校へ転学した。ここで外浪は音楽学部に籍をおき、2年間勉強した。 

同志社女学校でデントンから強い影響を受けて、1892年、学校卒業後まもなくシカゴにやってきたのが長野ひさと伊藤なつである。二人は、婦人キリスト教禁酒同盟傘下のクララ・バートン看護師養成学校(The Clara Barton Training School for Nurses)とナショナル・テンプランス病院(National Temperance Hospital)で看護学を勉強し、アルコールを使用しない新しい治療法を実践する病院を日本に作る夢を抱いていた。 

長野ひさ【左】(写真提供: Chicago Evening Post, 1987年2月20日)と伊藤なつ【右】(写真提供:Chicago Daily Tribune』1892年12月11日)

長野ひさと伊藤なつ以外にも、婦人キリスト教禁酒同盟の影響を受けてシカゴまでやってきた日本人女性が何人かいた。串田しげはその一人である。串田は、1889年に渡米し、婦人キリスト教禁酒同盟の奨学金を受けて勉学することになっていたようだが、うまく事が運ばず、まもなくカリフォルニアへ移っていった。

桜井ちかこ(写真提供:Frances Willard House Museum and Archives)

東京婦人矯風会の副会長、桜井ちかこは、コロンビア博覧会で開かれた婦人キリスト教禁酒同盟の大会に出席したあと、1893年11月にシカゴのムーディー聖書学院(Moody Bible Institute)に入学、最初の日本人女子学生となった。2年近いアメリカ滞在中に、渡米前に日本で創設されていたメアリー・アレン・ウェスト・メモリアル基金(Mary Allen West Memorial Fund)への支援を訴えた。

メアリー・アレン・ウェスト(Mary Allen West)は、婦人キリスト教禁酒同盟が1892年9月に日本に送った宣教師である。長老派の金沢ステーションを設立したトーマス・ウィン開教使と同じくイリノイ州ゲールスバーグ出身で、北海道から九州まで禁酒・禁煙を訴える講演活動をする予定だったが、ゲールスバーグ時代の教え子、ウィン夫人を訪ねた金沢で客死した。亡くなる前、ウェストは三重県四日市で婦人矯風会を組織した。その事務局長を務めた駒井とみえは、1894年9月、桜井が去ったあとのムーディー聖書学院に籍をおいた。

これらの女性以外にも、多くの日本人クリスチャン女性がシカゴに足を踏み入れていたはずである。たとえ無名で記録には残らずとも、彼女たちの強い意志とほとばしる熱情は疑いの余地がない。 

そして、日米のクリスチャン女性たちを突き動かした新しい時代への大志は今なおシカゴで生き続けている。 

第一次大戦後、本格的な女子大学への脱皮をめざした神戸女学院を支えたのは、1920年にシカゴの実業家や教育者、婦人伝道局の関係者で組織された在米神戸女学院財団(Kobe College Corporation -KCC)だった。神戸女学院の新しい建物建設のために、シカゴだけでなく、アメリカの30の都市で募金委員会が生まれ、日本の女子高等教育の発展に熱意を注ぐ人々を動かした。その後10年ほどのあいだにKCCに寄せられた募金は70万ドルにのぼった。 

現在の神戸女学院ソールチャペル(写真提供:神戸女学院)

1921年、神戸女学院とロックフォードカレッジは姉妹校関係を結んだ。両者の関係は、日系アメリカ人社会にも知られるようになったのだろうか。1921年当時、ロックフォードカレッジにできた世界親善クラブの副会長は、マリオン・アカギ(Marion Akagi)という日系アメリカ人女性である。1923年6月にはジェーン・アダムスが神戸女学院を訪ね、若い日本人女性たちを激励した。

日系アメリカ人と神戸女学院といえば、1917年から1940年まで神戸女学院の院長を務めた日本生まれのシャーロット・デフォレスト(Charlotte B. Deforest)がマンザナー収容所でボランティアのカウンセラー*注となり、日本人・日系アメリカ人の生活改善のために働いたことも付記しておきたい。

21世紀の今日も、奨学金や交換留学制度の活動を続けるKCCをはじめとして、シカゴで生まれた、女性たちによる女性のための日米連携への模索とそのエネルギーは普遍、不滅である。

現在の神戸女学院キャンパス(写真提供:神戸女学院)


*注:この写真のリンクはKCCウェブサイトSupportページより

 

© 2023 Takako Day

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このシリーズについて

これまで日本人移民史といえば、ハワイと西海岸を中心にして語られてきた。日本人の人口が多く、日本町では多くの物語が生まれたからだろう。戦前シカゴには日本町はなかった。国勢調査によると、日本人の人口は1930年が最大だったが、524人を数えたにすぎず、中国人2757人の5分の1ほどだった。1930年のシカゴ市の人口は約338万人。その中の500人あまりは、吹けば飛ぶような存在と見なされても当然だろう。

しかし、そうではなかった。数は少なかったが、日本人には存在感があった。「たった一人」の存在感である。それはまさしく、未開の土地を自分の手で切り開いていったアメリカ人のパイオニア精神にも匹敵する存在感といってもいいだろう。戦前シカゴの日本人は、今日まで続く日本人に対する一般的なステレオタイプ、たとえば集団で行動するとか「顔」が見えないといったイメージを自らの手で破り、生き生きとシカゴで生活していた。このシリーズでは、「たった一人」でシカゴのアメリカ社会に向き合ったユニークな日本人たちを紹介する。

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執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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