ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

media

en ja

藤原義江と日系アメリカ人 ― その1: オペラ座の夜

伝説のテノール歌手、実業家として何十年ものキャリアを誇った藤原義江は、20世紀の日本のグランドオペラにおける最重要人物であった。藤原はそのキャリアの大部分で藤原歌劇団の演出にあたった。歌手、演出家、教育者としての活動を通して藤原は、ニューズウィーク誌の言葉を借りれば、「ほぼひとりで日本のオペラの火を灯し続けた」― 藤原の北米公演は日系アメリカ人のあいだで大反響を呼び、「吾等のテノール」とあだ名をつけられた。藤原は日系人がクラシック音楽に興味を抱くきっかけとなった。

藤原義江

1898年12月5日、藤原はスコットランドの商人ニール・ブロディー・レイドと下関で琵琶芸者として働いていた坂田キクの息子として日本で生まれた。両親が同居することはなかった。レイドはその後、藤原の教育に経済的な支援をしたが、二人が会うのはずっとあとのことであった。藤原は少年時代に藤原徳三郎の養子となり藤原姓を名乗るようになった。

ある情報によると、十代の藤原はコウシュウシアターと原信子歌劇団に入団し、戸山という芸名で歌っていたようだ。また別の情報では、1918年に沢田正二郎の新国劇に加入したとされている。いずれにせよ、藤原は西洋のオペラのテノール、コンサートで歌う歌手になることを決めた――それはヨーロッパ留学を意味していた。

1919年、第一次世界大戦が終わるとすぐに藤原はミラノで歌を学ぶためにイタリアへと向かった。1921年にはイギリスに留学した。(後年、藤原は仲間のテノール歌手の松山芳野里と、イギリスでは身を立てることに苦労した、と懐かしく語り合った。まだ売れない頃、二人は借金のためにロンドンにある同じ質屋に何度もかよったそうだ。) 藤原の成長は早く、1922年の9月にはロンドンの有名なウィグモア・ホールに出演した。(大胆にも演目にストランヴィンスキーの現代曲「3つの日本の抒情詩」を取り上げている)

1923年、ニューヨークに渡った藤原はその歌唱と秀でた容姿でメディアの注目を集めた。記者たちは藤原がハリウッドの人気スター、ルドルフ・ヴァレンチーノに似ていると褒めそやした。カーネギーホールで初のリサイタルを行ったあと、観客の大部分が日系人で占めるエオリアン・ホールで原せい子と高田雅夫の舞踊を含む演目で歌った。

ニューヨーク・トリビューン紙の評論家は「藤原が場数を踏んできたことは明らかである。見目麗しい姿、快活な立ち振る舞いは、明瞭で訴求力はあるがややもの足りない声量を十分に補っている」と記した。一方、ニューヨーク・タイムズでは「藤原の抒情的な低音の声は多くの点で称賛に値する。その声の使い方、制御の仕方には天性の才能と積み重ねた訓練のあとが見てとれる」と評された。

1923年の秋、藤原はアメリカに戻った。(藤原はのちに、関東大震災の直後に日本を発ち、一文無しの難民としてロサンゼルスに着いた、とまるでメロドラマのように述べている。事実として、震災の7週間後に出国し、最初はハワイに到着した)

ホノルルでは、地元の日系人のためにヌウアヌのYMCAでのコンサートに3度出演、その後ウォルター・ディリンガムの自宅でリサイタルを行った。ハワイとのお別れコンサートは、日刊の新聞3紙の後援を受け、チュウガッコウ・ホールで開催された。主に日系人が占める600人あまりの観衆に向けて歌った。藤原は弘田竜太郎の「叱られて」などの日本の曲と、日本語に翻訳された西洋のオペラのアリアを歌唱した。

ホノルル・スター・ブレティン紙、1923年10月29日

藤原は1923年の秋の季節をカリフォルニアで過ごした。サンフランシスコでは、フェアモント・ホテルで開催した日曜日のコンサートで千人の聴衆を前に歌い、その後ラジオでも放送された。バラエティ誌の評論家は藤原を「日本のジョン・マコーマック」と呼んだ。1924年の1月にはロサンゼルスのラジオでリサイタルを行った。その直後、フレズノで、日本の関東大震災の救援に尽力したアメリカ人への感謝を捧げるために無料コンサートを、地元の仏教青年会の後援を受けておこなった。

藤原はその後の数年間、イタリア、日本、アメリカを行き来して過ごした。1925年4月には、ホノルルに戻りコンサートに出演した。同年9月には、仏教青年会による沖縄を救済するための慈善コンサートで再びホノルルで歌った。10月には、ニューヨークのインターナショナル・ハウスでナカヤマ・マサコのピアノの伴奏に乗せて歌った。11月には、訪米中だった日本の皇太子・朝香鳩彦のためにマンハッタンのウォルドフ・アストリア・ホテルとワシントンの日本大使館で開催されたレセプションで歌った。

1926年1月、藤原はロンドンに戻り、再びウィグモア・ホールで歌った。その夏、当時は多くの西側諸国の市民には閉ざされていたソビエト連邦を訪れ、シベリアと満州を経由して日本に戻った。同年の秋、東京の日比谷公園での市民コンサートに出演し、8千人といわれる観衆を前に歌った。

1926年10月、藤原はホノルルに戻り、ジョン・アードマンの劇場でリサイタルを開催し、その歌唱はホノルル・アドバタイザー紙に「オペラの正統派、比類なき声」と称賛された。1926年から27年にかけた冬、藤原は再びアメリカ本土の公演ツアーをロサンゼルス、エル・チェントロ(キリスト教婦人会が協賛)、サンフランシスコ、サンノゼ、サクラメント、ストックトン、フレズノ、ソルトレイクシティー、シカゴ、ニューヨークなどでおこなった。

1927年春、藤原はイギリスとフランスに向かった。5月のパリ、サル・デ・アグリクルチュールでのコンサートではリリカ誌より「藤原氏は魅力的なテノールの声を持つ。ほぼテノリーノ(高音部のテノール)と言ってもよく、それが最大の魅力だが、中間的な音域でもバランスが良く、粋で耳に心地よい」との賛辞を得た。8月、バンクーバーで好評を博した演目を演じた後、サンフランシスコのスコティッシュ・ライト・テンプルでの重要なコンサートで歌った。ニューワールドと日米新聞という2つの日刊紙が合同で協賛したイベントであった。

1928年の正月の直前、藤原は、イタリアと日本をルーツにもつピアニストの日下部ヨランダを伴い、アメリカとヨーロッパの公演ツアーを再度行った。その直後の1か月、藤原はホノルルに残り、その間、ヒロのエンパイア・シアターで歌い、ホノルルのミッション・メモリアル・ホールでも2度コンサートを行った。ホノルル・アドバタイザー紙が満員御礼なったことを記事にした。

藤原の演目はシューベルトの「あなたは安らぎ」と「シューベルトの子守歌」を含むドイツの歌、日本の歌、オペラのアリアであった。コンサートは太平洋横断を計画する日本人の飛行機乗りを支援する基金を募るために開かれた。藤原は収益から千円を寄付し、アメリカの各新聞で広く取り上げられた。

ハワイを出ると藤原はアメリカとヨーロッパをツアーした。ロサンゼルスでの滞在中にはパサディナ高校の講堂で歌った。シアトルでは日本館で歌った。ニューヨークではギャロ・シアターでリサイタルを行った。

1928年4月、藤原はロンドンに戻った。エオリアン・ホールでの単独公演で歌い、アルバート・ホールでは、ソプラノのルイーズ・ローリングと共演した。タイムズ紙はエアリオン・ホール公演を「好感の持てるソフトなテノールだが声量に欠ける。しかたないことだが、イタリア語での歌唱にもハンディキャップを背負っている」。現代の日本の作曲家による楽曲では、その歌唱はよりのびのびと響き、結果的に節回しも改善された。タイムズ紙の評論家は中山晋平の「出船の歌」を賞賛した。イタリアでは当地の国王のために歌ったと記録されている。その秋、藤原はブダペストでヴェルディの歌劇「リゴレット」に出演した。

こうした期間におこなった国際的なコンサート活動に加えて、藤原はラジオにも出演した。なかでもロサンゼルスのKHJ局への出演が注目に値した。(例えば1925年の放送では、看板曲の一つである「ヴォルガの舟歌」を歌っている)そして注目すべき、レコーディング契約のあるアーティストとなった。1925年、藤原はRCAビクターとの契約を交わした。その後の3年で24枚を吹き込み、ピアノの伴奏に合わせ独唱した。そのうち、2曲以外は全て日本の曲であった。

1928年初頭、藤原の人生と芸歴に転機が訪れた。まず、裕福で既婚の女性、中上川アキと出会い、恋に落ち、世界的なスキャンダルを引き起こした。アキは離婚を申し立てたが、判決はなかなか下らなかった。日本では藤原の評判に陰りが出ていた。1929年、羅府新報は和歌山県の教育委員会が藤原を「青少年を堕落させる者」と表し、藤原を当地の女学校に招いて歌わせることに抗議した。

最終的にアキは日本を離れ、藤原と合流し、二人はヴェニスで結婚した。興味深いことに、ヨーロッパに来たものの、二人は当初、一緒に暮らさなかった。藤原はミラノで歌い、勉学に励んだ。一方でアキは国境の向こう側のフランスに居を構えた。

日米紙が報じた2つの記事で藤原は、音楽のためにミラノに滞在しなくてはならなかったが、配偶者への風当たりは不当であり、結婚に対するゴシップには気が滅入る、とこぼした。1929年初頭、藤原は黄疸にかかり、アキと暮らすためにニースに移った。しかし、その後、間もなくアメリカに単独公演ツアーに出ていることを見れば、おそらく健康への配慮以外にも二人が一緒に暮らす理由があったと思われる。

1929年2月、藤原はアメリカに到着した。妻と一緒の旅ではなかったが、アメリカの聴衆、特に日系アメリカ人から不道徳な結婚を理由に拒絶されないかと恐れていた。ロサンゼルスとサンフランシスコ以外に、ハンフォードでのコンサート(日系アメリカ人教育協会主催)にも出演し、パサディナでは当地の日本人教会の慈善リサイタルで歌った。

藤原の人気は誰の目にも最高潮に映った。しかし、虫垂炎を理由に間もなくアメリカを離れ、1932年まで戻らなかった。

1930年映画『藤原義江のふるさと』の藤原義江と浜口富士子

1930年初頭、藤原は東京に戻った。その頃、日本で製作された初のトーキー映画に俳優と歌手として主演することを依頼された。溝口健二が監督したこの映画は『藤原義江のふるさと』と題された。粗筋は、藤原自身の経歴に似たところもあるが、若い歌手の藤村義夫が裕福な女性パトロンとの人の道を踏み外した関係のために、律儀な恋人を捨ててしまうというものであった。この映画は、大恐慌時代の日本にあっても良好な興行成績を残した。

その後、ほとんどの時間をヨーロッパで過ごし、妻とも再び生活を共にした。(夫婦には義昭という息子も生まれた)1930年代中盤はラ・スカラ・オーケストラと共に24曲のオペラのアリアをケリー・レーベルに吹き込んだ。

1931年、藤原はパリのオペラ・コミックでプッチーニの「ラ・ボエム」の舞台でロドルフォ役を演じ、歌手人生の新しい頂点に到達した。同時期にパリの名高いコンサート・ホールであるサル・ギャヴォーでリサイタルを行った。翌年、藤原は、イタリア政府の独裁者、ベニート・ムッソリーニより、イタリアと日本の文化の橋渡し役を果たしたとしてメリット勲章を授与された。

1932年5月、藤原はイタリアから日本に行く途中、短期間、アメリカに戻った。藤原を「吾等のテナー」と呼んだ日刊紙の加州毎日の後援を受け、ロサンゼルスのトリニティ・オーディトリアムでのコンサートに出演した。(3年ぶりのアメリカでの出演であった)そのコーサートには伝説的なダンサー伊藤道郎(みちお) も出演した。(伊藤は藤原の傷ついた名声を回復させようと藤原との共演を申し出たと考えられる)

おそらくアメリカに向かう途中の藤原義江と妻あきと息子

1933年中盤、藤原は再び北米での公演を依頼された。ハワイに立ち寄り、ホノルルのYMCAでのコンサートで著名なピアニスト、マキシム・シャピロの伴奏で歌った。そして、ヌウアヌ・キリスト教教会の慈善リサイタルにも出演した。サンフランシスコでは日本の総領事・若杉要が開催したレセプションの特別ゲストとなった。この公的な催しへの招待は藤原の名誉が回復したことを物語っていた。藤原はそのレセプションでくだけた歌を歌い、その声の美しさと多彩な表現力で招待客たちを感動させた。

バンクーバーの日本館ホールで歌ったあと、地元のバンクーバーサン紙は「驚異の歌唱力とオペラの基礎を備えた歌手」と評した。ロサンゼルスに移ると、西本願寺に集まった満員の聴衆に向けて2回のリサイタルと主演映画『叫ぶ亜細亜』の上映をおこなった。この公演ツアーでの白眉は1933年11月にニューヨークのヒポドロームで開催されたシカゴ・シビック・オペラ・カンパニー製作、ピエトロ・マスカーニ作の日本的なオペラ「アイリス」で男性の主役を演じたことであった。もうひとつのハイライトは、歌手ルディ・バリーのNBCのラジオ番組に出演し全国放送されたことであった。

その2 >>

© 2023 Greg Robinson

England Europe Hapa Italy Los Angeles New York opera Our Tenor Scottish tenors Yoshie Fujiwara