知ることからはじめる
中国の武漢で最初に確認された新型コロナウイルスがアメリカでも猛威を振るったときに、アメリカのトランプ大統領や政権の幹部がこのウイルスを「チャイナウイルス」と呼んだ。ウイルスと中国が結びつき、やがてアジアと結びついたのだろう。この結果アメリカ国内で中国系はじめアジア系の人々が攻撃、差別される事件が頻発した。
アメリカ国内でアジア系に対するこうした事例としては、古くは、中国系移民などに対する排斥運動や戦時中の日系アメリカ人や日本人に対する強制収容政策をはじめ、2001年の9.11後のアジア系のイスラム教徒に向けられた攻撃・差別があげられる。
もちろんアメリカ国内の差別はなにもアジア系に限ったものではない。しかし、中国系、日系、フィリピン系、インド系など、アジアのなかの民族や人種に対するこうした差別は、広くアジア系というグループに対する差別でもある。差別される当事者にとってみれば、自分は日系、中国系、フィリピン系であると同時に、共通するものを背負っているアメリカ人なのだという意識が自然と芽生えてきても不思議ではない。
つまり、アメリカ社会のなかでは同じマイノリティであり、後発の移民グループであり、かつ、白人社会の言語、文化、宗教とも遠いところに存在するグループだ。名づける、あるいは自ら名のるとすれば、アジア系アメリカ人ということなのだ。
この「アジア系アメリカ」という、数学でいえば最小公倍数のような、さまざまな民族、文化的な背景をもつきわめて大きな広がりをもつ人々や概念をどう理解したらいいのか。この問いにさまざまな角度から答えたのが、このほど出版された『アジア系アメリカを知るための53章』(李里花編著、明石書店)だ。
世界各地の歴史や文化などを解説する同社の「エリア・スタディーズ」シリーズのひとつで、53にわかれたテーマについて、アメリカ社会や移民などを専門とする研究者など41人が、それぞれ得意とする分野にからめて「アジア系アメリカ」を浮かび上がらせた。
編著者の李里花氏は、中央大学総合政策学部教授で、移民研究などを専門とする。アメリカ移民の父と在日コリアンの母との間で、在日コリアン3世として日本で生まれ、日本文化にもコリアン文化にもなじみがある一方、アメリカでも移民として数年暮らしたことがある。
また、留学生としてもアメリカに滞在した経験から、アジア系アメリカ人にとってのエスニックタウンに興味を覚えるようになった。そこが同じルーツをもつものにとって物理的にも精神的にも大きな役割を果たしていることや、苦難の歴史や記憶が残っている場所でもあるからだった。
こうした点から当初は、アメリカのアジア系エスニックタウンを紹介する本に取り組む予定で、その取りかかりとしてアジア系アメリカをテーマにした本を探した。ところが、さまざまなエスニック集団の最近までの動向を横断的にとらえた本が少ないことに気づき、本書の企画に至ったという。
約1400万人がアジア出身
本書では「極東、東南アジア、インド亜大陸をルーツにする人びと」をアジア系としているが、2023年現在、アメリカには約1400万人のアジア出身者が暮らすという。
この1400万人を人種集団別や居住地別など、統計からみて分析し、つぎに日系や中国系など、アメリカにおける個々のエスクニック集団について解説する。
続いて、アジア系の排除の歴史やマイノリティとしての社会的な闘いなど、アジア系であることの苦難とそれを乗り越える運動についてまとめている。また、政治、経済、教育、音楽、演劇、食、アート、ラップ、宗教、墓など、さまざまな分野からアジア系アメリカをとらえる。
さらに、アメリカ国内にとどまらず、国境を越えたアジア系アメリカ人の動向についていくつか考察している。一例を挙げれば、自らのルーツのアジアがアメリカの帝国主義によって抑圧されたということから、アジアとの連帯を求めた活動の歴史だ。
李氏は、なによりもアジア系というものが認知されることの意義を強調する。かつてアジアからアメリカに移民してきた人たちは、中国系、日系、インド系、という言葉によって括られる個々の国や民族を背負った個々の集団としてとらえられた。あるいは、オリエンタルという“異邦人”的な呼ばれ方をした。
同じようにマイノリティとして扱われるが連帯することはほとんどなかった。それが変化したのは、1960年代の公民権運動のなかで、アジアにルーツをもつアメリカ人もまた、マイノリティとしての権利を主張し、同時にアイデンティティを自らに問い、社会に向けてその確立を目指したときだった。
このなかで「アジア系アメリカ人」という言葉も生まれた。「当時大学院生だったエマ・ジーとユージ・イチオカが『アジア系アメリカ政治同盟』という団体を創設したことで「アジア系アメリカ人」という言葉が使われ始めた。」(「本書・はじめに」より)。そして、この流れから、アメリカの大学でマイノリティを研究する「エスニック・スタディーズ」が設置されていったという。
「アジア系アメリカ」を意識した文化活動も活発になり、演劇の世界では、フランク・チンの「鶏小屋のチャイナマン」(1972年)が、アジア系としては初めてニューヨークの商業劇場で上演された。音楽では、本書では紹介されていないが、HIROSHIMA(ヒロシマ)というグループの活動がユニークだ。日系アメリカ人3世らを中心に1973年に結成された、当時でいえばフュージョンバンドで、琴や太鼓など和楽器を取り入れた。原爆で亡くなった少女のための歌「サウザンド・クレインズ」を歌うなど、日米の狭間に位置するグループならではの活動が見られる。
文学の世界では、「アジア系と文学」の章で、牧野理英氏が、時代を追ってアジア系移民文学から今日までのアジア系アメリカ文学を動きを時代を追って概説している。そのなかで、日系アメリカ文学のパイオニア的存在として日系2世のジョン・オカダの「ノーノー・ボーイ」を「『アジア系アメリカ』を体現したもの」ととらえている。
まだ「アジア系アメリカ」が登場する前の1957年にこの小説は出版されたが、ほとんど顧みられることはなかった。それが70年代になって、戦後生まれの日系、中国系の若者がこの小説の存在を知り、「これこそがわれわれの文学だ」とばかりに自らの手で出版し、再評価につなげた。
アメリカ文学と言えば、ヘミングウェイやフォークナーといった白人文学しか意味しないようななかで、ジョン・オカダのおかげで自分たちアジア系アメリカ人にも文学があったのだと歓喜するフランク・チンは、「オカダはわれわれ黄色い魂の証しである(John Okada is the proof of our yellow soul)」という。
アジア系アメリカというアイデンティティをオカダを通じて確信した言葉だ。「アジア系アメリカ」を知るひとつの象徴的な言葉でもある。
いま、アジア系アメリカ覚醒の時代から、およそ半世紀がたち、移民の世代も古いファミリーでは6世、7世という時代になった。ルーツへの関わり方や帰属意識も、同じアジア系でも、また同じエスニックのなかでも異なる。戦後に日本からアメリカへ移住した人は、「新1世」と呼ばれ、もはやかつての「移民」という概念があてはまらない。
こうした状況の中でアジア系アメリカというアイデンティティとは何なのか、どのような核をもち、また広がりをもつのか、それとも薄れていくのか、さらなる研究を注目したい。
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