大前家、三代の物語
数年前、京都市在住の大前皓生さんから「大前一郎物語」(象の森書房)という、アメリカのフロリダとつながりのある大前家のファミリー・ヒストリーを綴った自著が送られてきた。私がかつて「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)という、フロリダヘの日本人移民のノンフィクションを著したのを、大前さんは知っていたからだった。
日本からのアメリカへの移民は、西海岸が中心で、フロリダについての移民の歴史や実態はほとんど研究者の間でも触れられることはなかった。拙著は、南フロリダに20世紀のはじめに存在した日本人村(大和コロニー)を舞台にしていて、そのなかでフロリダ州全体の日本人移民についても触れた。
このなかに、大和コロニーのように集団で日本人が入植した事例が、同州北部にもあった。アメリカ本土への日本人移民についてまとめた「米國日系人百年史」(1961年)によれば、カリフォルニアで排日の気運が高まり1913年には外国人による土地所有を制限する法律が制定されたころ、土地売買の斡旋などをする茂木清吉という人物が、カリフォルニアの日本人にフロリダ州北部のジャクソンビル近郊の土地を斡旋した。
この土地は、当時の同州知事ウィリアム・ジェニングスの所有地で、彼は日本人を呼び入れようとしていた。この移住計画に呼応して30人余りの日本人が入植した。しかし、この動きに対して現地の新聞が排日の立場から“黄禍論”を訴えるなど、人種の違いをめぐる問題にまで発展しそうになり、日本政府も宥和策をとった。
また、すでに実績を上げている南部の大和コロニーのリーダーの酒井醸は、日本人の入植自体は歓迎しながらも、茂木の計画については「土地売買を目的とし、だれかれかまわず土地を売ることは問題」と、批判的だった。
結局、入植地近くの地名からミドルバーグコロニーと名づけられた集団移住地で、日本人による野菜作りが行われたが、土壌や作物の輸送に難があり、しばらくして継続するのは困難と判断しほとんどの入植者はカリフォルニアなど他州へ移っていった。
このなかで大前久次郎と鶴蔵の大前兄弟と尾崎兄弟は、ジャクソンビルの郊外にとどまり協同で野菜作りをはじめた。この大前兄弟のうち兄久次郎の息子一郎の甥にあたるのが、私に本を送ってくれた大前晧生さんで、一郎の妹の息子だった。
大前さんは、アメリカにわたった一郎やその父久次郎をはじめ大前家のルーツに興味をもち、自らフロリダに生前の一郎を訪ねて行ってきいた話や、一郎の長女がまとめた家族の歴史などをもとに2017年末に、一郎を中心とするこの大前家のファリミリー・ヒストリーを出版した。日本語版のほか英語に翻訳して、英語版も作っている。
私は大前さんとは、その後二、三度メールでのやりとりをしていたが、先日、京都に行った際にお会いし、本をまとめた経緯などにをうかがった。この点も交え、本書にある大前家の歴史を、まずは年代順にまとめてみた。
兵庫県の山間部からアメリカへ
話は、明治時代からはじまる。そのころ大前家は、現在の兵庫県丹波市山南町北太田という、山に囲まれた地にあった。大前家は代々農家で、主の半平は農業の傍ら行商で財をなした。1876(明治9)年、長男の久次郎が生まれ跡を継いだが、友人の借金の保証人となり、莫大な借金を背負うことになる。
地元にいたのでは到底返済することができないと思った久次郎は、返済するためにアメリカに出稼ぎに行くことを決め、1903(明治36)年、単身アメリカにわたった。このときすでに結婚していて、長男の一郎は4歳で、さらに妻ふじは身ごもっていた。
久次郎の乗った船はシアトルに到着。同じころにシアトルに上陸した日本人のなかには、密航者とみなされ日本に送り返されたものも多かった。久次郎がなぜ上陸を許可されたのかはわからないが、彼はその後ノーザンパシフィック鉄道に雇われ、鉄道工夫として働きはじめた。
少しでも賃金のいい仕事をして一日でも早く借金を返すために、ロッキー山脈での極寒のなかで凍傷にかかるような環境での仕事にも耐えた。そして数年後、ロサンゼルスに移り、そこで和歌山県出身の尾崎兄弟と出会い、一緒にビート(砂糖大根)の栽培をはじめる。
1906年、久次郎の7歳年下の弟鶴蔵も渡米してきた。兄を助けようという気持もあったが、もうひとつ、兄を妻子の待つ故郷に帰国させてあげたいと思っていた。一方、久次郎はビート栽培に見切りをつけて、茂木清吉の呼びかけに応じてはるか大西洋岸のフロリダ州への集団移住の一員として鶴蔵や尾崎兄弟とともに参加した。
しかし、この入植は失敗に終わり、多くの者が現地を去るなかで、大前兄弟と尾崎兄弟はジャクソンビル郊外にとどまった。そこで鶴蔵は久次郎に日本への帰国を勧めたが、久次郎は、自分が日本に帰る代わりに息子の一郎をフロリダに呼び寄せようと考えた。
1917年12月、一郎は神戸からサンフランシスコに到着、迎えに来た久次郎と親子再会を果たした。一郎は久次郎とともにそのままフロリダのジャクソンビルに向かい、親子と鶴蔵とで野菜作りに精を出した。1918年、久次郎らはこの地域では初めてトラックを導入し、大量の野菜作りをするようになった。
同年、久次郎は渡米以来15年ぶりに日本の故郷へ戻った。しばらくして父半平が亡くなったこともあり、二度とアメリカには行かないつもりでいた。しかし、フロリダでは鶴蔵と一郎がこれまでレンタルだった土地を買い取るなどし、自ら土地を所有し事業も拡大した、という知らせを受けると、「3年後に帰ってくる」と妻と娘に約束し、1920(大正9)年3月再びアメリカへ行く。
父、叔父を亡くしひとりになった一郎
フロリダで鶴蔵、一郎とともに野菜作りに打ち込んだ久次郎だったが、わずか半年後の1921年8月、腸チフスに似た風土病に罹り亡くなってしまう。さらに、その翌月,今度は鶴蔵が同じ病気で急死する。
故郷の母からは日本に帰ってくるように手紙が来たが、一郎は、父たちの残した事業を引き継ごうという気持と、大前家で父の代から働く黒人のトム・グレイの助けを得てフロリダに残ることにする。故郷では妹夏江が結婚し、夫の雅司が大前家の家督を継いだ。
1931年、一郎は日本からジャクソンビルに移住していた高見徳太郎の次女シズと結婚、その後6人の子どもをもうける。
ジャクソンビルの農業が大恐慌などで行き詰まってきたなかで、1938年一郎は輸入土産物店も開いて兼業した。また、尾崎兄弟のすすめでフロリダの北隣りのジョージア州で知人の仏円氏と共同で農場経営をはじめ、一家でジョージアに引っ越した。
3年後、日米開戦となると一郎はひと晩投獄されただけだったが、土地の所有を禁止されたためトム・グレイの名義に変えて窮地を逃れた。やがて終戦を迎えると一家はジャクソンビルに戻り、一郎は平日ジョージアで働くという生活をつづけた。
1949年、32年ぶりで一郎は単身故郷へ戻り母や妹と再会。3ヵ月滞在しフロリダへ戻ると、結局これが母との最後の別れとなった。
その後農場の経営は順調に推移していき、1962(昭和37)年、一郎は農場経営から引退した。この年一郎の農場はそれまででもっとも利益を上げた。
1971年、日本でアメリカンスクールの教師になった三女のエミーの招待で、一郎はおよそ20年ぶりに妻シズを伴って日本を訪れ、京都観光などを楽しみ、大前家の墓参りをした。翌72年8月、骨髄がんを患っていた一郎は、息子夫婦と孫が暮らすロサンゼルスに移った。
子どもや孫たちは一郎を頻繁に訪れるなか、同年12月7日家族に見守られて一郎は永久の眠りについた。それからおよそ22年後の2005年、妻のシズは96歳で亡くなった。6人の子どもたちは、それぞれ結婚し子どもをもうけた。一郎からすると10人の孫が誕生した。(本書出版の2017年時点で)
以上が、「大前一郎物語」にあらわされた、一郎を軸とする大前家の年代記のあらすじである。若くして、ひとりフロリダに残された一郎は、帰国のことも考えただろう。しかし、彼はアメリカに踏みとどまった。その決心とその後の努力により、アメリカに骨を埋めることになり、結果として、日本とアメリカに大前家(Omaye Family)は残ることになった。ひとりの人間の決意の重さというか,不思議な力を感じさせる。
続く...
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