字を書くのが得意でない私は、学校の答案用紙やアンケート用紙に自分の名前を書くのが嫌いだった。いつも枠からはみ出しており、先生からいつも注意された。特に習字の授業は大変きつかった。
高校2年生の時転向した鹿児島県立末吉高等学校の担任松元先生が、転校生の私を紹介した。名前の滋樹(しげき)はこんもりと繁った大きな木を意味するのだね。「お父さんが名前を付けて下さったのですか?」と尋ねられた。さあ? 返事がとっさに出来なかったが「はい」と答えた。名前を褒められて私は嬉しくて、この学校が好きになりそうだ。
前に住んでいた町では、小学校と中学校で何回もいじめられた。父が警察署に勤めていたのでいじめを隠していた。果たして末吉高校の生徒は付き合い易く、すぐ友達が出来た。町の人々もおとなしい人が多い。勉強の意欲も出てきた。学期末試験の結果が段々と上がり、進学組に入れる様になった。松元先生のご指導のお陰だ。
先生は特に私の作文を褒めて呉れて、時々クラスの皆に読んで聞かせた。何だがクラスの人気者になった気がした。でも、数学と物理は苦手だった。松元先生はこの科目の得意な生徒を自習時間に同席させて、苦手な問題の解き方を教えてくれた。3年生のお正月は、ごちそうもそこそこに必死に勉強した。
私の本籍は鹿児島県日置郡日吉町吉利。生まれは枕崎市。父茂の先祖は長野から養蚕普及に鹿児島に来たと、母タネから聞いた。母の実家の柿元の先祖に、よその国から坊津(ぼうのつ)の湊に入る船の水先案内人がいたという。
農家出の警察官だった父に、「私の名前は誰が命名されたのですか」と聞いたら、近くのお寺の住職さんだという。なるほど、私の兄弟の名前もそのままでは読めない漢字が多い。長兄は光祠(こうじ)、三男教人(のりと)、長女明美(あけみ)、 四男仁志(ひとし)、五男盛也(せいや)。パソコンのワ―ドでこうじと打っても転換する漢字が違う。明美は出てくるのだが。
1966年夏、神戸出港のさくら丸でブラジルに移住した。呼び寄せ農家のサンパウロ州イビウナ郡にある前田種鶏場に入る。毎日、畑仕事と鶏舎の糞出し。鶏糞は野菜や果樹の農家からトラックで取りに来る。コチア産業組合と書かれた飼料袋はきれに洗濯され、私たち従業員の仕事着になった。
その後、出聖(しゅっせい ー サンパウロに行く事)し、会社務め。藤井パーティで知り合った人と結婚した。父親が高知県佐川町出身。母親が広島県福山市出身の尾碕光江エレーナさん。子供が5人生まれ、長男は忍マルコ、次男丈アンドレ(早産で昇天)、長女真希アンドレイア、三男誠ロドリゴ、次女彩マリアナ。孫は3人。真希の子供は丈ダニエル君、彩の子供は浩ルカス君と健造ケビン君。忍と誠の孫たちも待っているのだが、観音様にお願いしよう。
会社時代、同僚に勧められ、ブラジル国籍を取得。松村滋樹にMaximilianoを付けた。長い名前なのでみんなからマクスと呼ばれる。子供たちが大きくなると友達から聞くのだろう、パパイは何故日本人を捨てたのだと文句を言われている。
忍と丈は日本国籍を申請している。忍は日本の赤いパスポートを持って世界中を旅している。真希と誠、彩達も同じように赤いパスポートを欲しいといつも言われている。人口が毎年減り続けていつかは日本国が消滅する?かも知れないので日本人に戻してほしいと私もお願いしたい。
© 2024 Maximiliano Shigeki Matsumura
ニマ会によるお気に入り
特別企画「ニッケイ物語」シリーズへの投稿文は、コミュニティによるお気に入り投票の対象作品でした。投票してくださったみなさん、ありがとうございました。