豚輸送船の出港地はポートランド。船名はオーウェン号という。出港は1949年8月31日。だが2日後、猛烈な嵐に遭遇、甲板の豚小屋は吹き飛び、白豚が宙を舞った。ために船は一旦帰港、豚を補充し、豚小屋を再建しての再出港は9月4日。その途中も嵐や機雷に遭遇するなど、航海は並大抵ではなかった。こうして目的地、沖縄のホワイトビーチ到着は、予定よりも大幅に遅れて9月27日。
しかし、なぜ豚を沖縄へ、海を渡らせたのか?
私はこの謎を追跡、するとある人物が浮上した。その男は比嘉トーマス太郎。沖縄系ハワイ2世。「豚の海わたり」の仕掛け人である。彼はいかなる人物か。
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太郎は激戦地、40%余りの日系兵が戦死傷したイタリア・サンレモの戦で2度、重症を負い、本国病院へ護送された。その彼をJACL会長、城戸三郎が訪ねてきて申し出た。「あなたの戦場体験、——“事実”を収容所の日系人に語っていただきたい」。
「日系兵は白人の弾除けだ。真っ先に日系兵が突撃、次に黒人兵、最後に白人兵が」との噂が飛び交う時である。太郎はいう。
「事実。——戦場に人種は関係ない。なぜなら爆弾は公平だ。これが事実だ」。
太郎は療養中の病院を抜け出し、戦場の「事実」を伝えるべく、10箇所の日系人収容所、日系人隔離所23箇所、内陸部40州に点在する日本人街を巡講した。その距離実に37,000キロ、ほぼ地球一周である。45日間の日程は4倍の180日間。それも未だ負傷も癒えぬ体だ。しかもほとんど自費、一等兵の安給料、貧乏旅行であった。
その最終の講演地がカリフォルニア州のマンザナー収容所である。ここで太郎は運命的な出会いをする。ハーバート・ニコルソン牧師である。牧師は30年間、日本で布教をしていたが、日米の開戦で帰国した。
なお、ここで知っておきたいことがある。どの収容所にも親日本人(国家ではない)の牧師がいた。彼ら彼女らは長年日本に暮らして、一見曖昧な中に潜む日本人の(良くも悪くも)気質を見抜き、それを愛してくださった。その彼ら彼女ら牧師の国家・人種を超越した高貴な精神が、理不尽に収容される日系人の心身の救済のために、収容所で働いたのである。
ニコルソン牧師のハイファー・プロジェクト、「日本の子へ乳ヤギ200頭を贈る」活動の責任者だった。時は1944年10月10日、アメリカ軍の沖縄県那覇市大空襲の前日である。イタリア戦戦において戦争の惨禍を被った民衆の悲惨な現実・戦争の「事実」を知る太郎は言った。
「ニコルソンさん、いま救援を必要としているのは、沖縄です」。
牧師は渋々ながら沖縄へ変更、現地に見た民衆の惨劇にこう言った。「私たちアメリカ人を許して欲しい」と。そして述懐する。
「私はヤギそのものより、ヤギのメッセージの方が大切だと考えたのです」。
太郎は言う。「アメリカ合衆国。公平なる人間のいる国は奥が深い」。
牧師は、ヤギ乳で飢餓を救われた日本の子に「ヤギのおじさん」と親しまれ、それは教科書にも載った。
太郎は、このプロジェクトに、あるとてつもない発想をした。それが豚の海渡り、沖縄から見れば「海から豚がやってきた!」であった。
沖縄は豚文化の国である。米軍の沖縄上陸、地上戦争は間近だ。さすればイタリア戦線の民衆惨劇の再現は必然だ、と太郎は予感した。
太郎は先を読む優れた才覚があり、それを即実行する行動の人であった。太郎が3歳の時に沖縄に預けられ、わずか9歳で大阪に出稼ぎ出たことからもわかる。沖縄を出るその日、太郎は母校の大きなガジュマルの樹の、涼しい樹陰に包まれて、恩師を前に誓った。
「僕はこの大きなガジュマルの樹のように、世のため人のためになる人になる」。
太郎は生涯、誓い破らなかった、自分を裏切らなかった。人は大抵「わが人生、これでいいのか」と思う節目がくる。だがそのまま進むのが普通だろう。だから、太郎の9歳の自分を裏切らぬ生涯、それも「世のため人のために」、自分のためにではない生き様は、尋常ではない。
太郎はハワイに生還した。即座に、「沖縄救援運動」を立ち上げた。そして実情視察のために、沖縄地上戦争に志願、除隊間近の負傷兵ゆえか、比嘉トーマス太郎は所属部隊なしの兵として従軍。激戦の沖縄各地を視察し、次の電文をハワイの沖縄救援運動体へ送信した。
「豚小屋に豚の影、全くなし」。これが視察報告第一報である。
この報告にハワイの沖縄救援運動はフル活動、短期に豚購入資金が潤沢に集まった。この金で550頭の豚をポートランドで購入している。なぜならハワイではこれだけの豚が揃わなかったから。
内訳は、雌豚500頭、繁殖用雄豚50頭。この数字は獣医の繁殖率計算によった。それによるとわずか4年後にはなんと、200万頭余! 統計によると戦前沖縄の最高頭数は10万頭、それが戦争で2,000頭に減じていた。夢のようだが……、まさに夢だった。獣医は計算式にある重要な係数を入れ忘れていた。飢餓である、繁殖豚を食っちまった。それでも4年後に14万頭という過去最高の数字を達成している。
ところで沖縄は元来黒豚。贈った550頭は白豚だった。これで沖縄は白豚に一変。このチェンジの衝撃はある沖縄人の感謝の手紙に、如実に表れている。
「ハワイからの貴君らの同情による豚は、アメリカと同じ、純白なホワイトピッグ。美しい豚を初めて見ました。何でもかんでもハワイの品は美しく異なっていますね」。
沖縄救援運動は衣料、医療、教育など多方面に発展、さらに運動は全ハワイへ、全米へ、中南米へ、そして世界へと発展して行った。ハワイでは、「人間が楽に横になれる大きな箱がじつに1350箱。つぎつぎトラックは沖縄へ輸送する船が待つ港へと、出発して行く。最後のトラックが出発したそのとき、人々はお互いに握手して喜び合った。それは大きな感激でした」。(ある、運動参加者の手記)。
運動は大成功、戦争に荒れ果てた沖縄の復興の原資となった。しかし忘れてはならない。その影にはやはり、牧師らがいたことを。ハワイではギルバート・ボールズ博士、米本土ではハイラー牧師、さらに米国赤十字社のスィーツランドである。
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1946年、沖縄救援運動のまっさなかの太郎を、またもJACLの城戸三郎らが訪ねてきて言った。「収容所から解放された日系人はホームレス状態、そこに凄まじいジャップヘイトが」。と前おきし「日本人の帰化権獲得(移民法改正)と、強制立ち退きに対する謝罪と損害賠償を求める全米規模の『市民協会反差別委員会』を立ち上げた」。しかし「国家が相手。(日系人は)後難を恐れて運動は困難を極めています。頼みの綱は、日系人の多いハワイです。ハワイの運動の柱になって」ほしいと頼みこんだ。
太郎は引き受けた。全力を傾けた。それもなんと7年間である。「私は経済が豊かでやったのではない」という。じっさい家屋が競売寸前にまで追い詰められている。それでも、9歳の自分にした約束を裏切らなかった。
太郎29歳に始めた沖縄救援運動は7年続いて、決着は1952年、7人の家族がいた。また「移民法改正」と「強制立退に対する謝罪と損害賠償請求」の運動の前者は、同年6月27日、米国議会を通過。集めたカンパは全米で643,140ドル。内、太郎のハワイは88,196ドルに達している。署名は4万数千筆だった。しかしこれは始まりの第一歩に過ぎなかった。改正移民法はヨーロッパ系への移民割り当てが98%、日本人はわずか185人。その法改正にさらに5年、決着は1965年である。現在、米国に150万人余の日本人が当たり前のように活躍するが、それは太郎とJACLら、自分は1円の得にもならぬ運動を20年余も続けた、その恩恵であることを知らねばならない、また忘れてはいけないと思う。
このように生きた太郎の最後の仕事は自費製作、日本人ハワイ移民の歴史・記録映画『ハワイに生きる』である。紙数が尽きたので、これについての物語は次の機会を待ちたい。
最後に、太郎の7人家庭は厳しい暮らしにめげず、おおらかで暖かかった。末娘のEは明るくいう。
「うちは貧乏だったあ! 食後のデザートはね、1個のリンゴを7人で分けあったのよ」。
明るい貧乏暮らしは、子らに、自然に「分けあう精神」を育んでいた。日本には「木守りリンゴ」という美しいことばがある。最後の1個は自然の神様への捧げもの、残しておく。比嘉家族はリンゴの木のてっぺんに1個、自然神に捧げる真っ赤なリンゴのように輝いていた。
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さて今日、日系2世から話を聞く機会はもはや難しい。しかし彼ら彼女らによって、今日の日系人ばかりではない、日本人が恩恵を受けている事実を忘れてはならないと思う。
私はこの思いから今年の6月、2世・比嘉トーマス太郎の伝記『比嘉トーマス太郎——沖縄の宝になった男』(水曜社)を上梓した。とはいえ日系人の母語は英語です。アメリカで、英語版の出版の機会の提供者を求めています。
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