問題は国籍? 血筋?
パリ・オリンピックが間もなくはじまり、各競技とも日本代表の内定選手が次々と発表されているが、そのなかには、外国にもルーツをもつ選手も数多くいる。テニスの大坂なおみ(父がハイチ出身)をはじめ、男子バスケットボールの八村塁(父がベナン出身)、女子バスケットボールの馬瓜エブリン(両親がガーナ出身)、陸上男子100メートルのサニブラウン・アブデル・ハキーム(父がガーナ出身)、同じく110メートルハードルの村竹ラシッド(父がトーゴ出身)などだ。
オリンピックの日本代表になるには、日本国籍が条件でもあり、内定の代表選手ももちろん日本国籍を有しているので、外国にルーツがあったり、いわゆるハーフやミックスレイスであっても、当人が代表選手になることが議論になることはない。
しかし、今年の一月に外国にルーツをもつ日本人が、“ミスコンテスト”で日本を代表するような形になったことをめぐって、批判や中傷の声があがり、さらにこれをめぐって「日本人」とはなにか、あるいは「日本人らしさ」のようなものが改めて論議を呼んだことがあった。
今年一月に行われた「第56回ミス日本コンテスト」でグランプリに、椎野カロリーナが選ばれた(後にグランプリを辞退)。同コンテストは、初代のグランプリには、後に女優となった山本富士子が選ばれ、その後も藤原紀香らを輩出した歴史をもつ。
椎野は、ウクライナ東部の町テルノピルで生まれ、5歳の時にウクライナ人の両親とともに日本に移住し名古屋で育った。2022年に日本国籍を取得したという。コンテスト当時はモデルとして活動していた。
彼女のグランプリ受賞に対して、ソーシャルメディアのなかに批判的な意見が出てきたことで、外国のメディアも「日本人とは?」といった問題意識のもとに、これをとりあげた。
BBCニュース・ジャパンの記事では、次のような声を紹介している。
「日本とのハーフですらなく純度100%のウクライナ人」、「美人なのは理解するけど、ミス日本なのに『日本らしさ』はどこにあるのか」。「椎野さんが「(日本との)ハーフなら問題ないが、民族的に0%の日本人だし、日本生まれですらない」。「ヨーロッパ人のような容姿の人が、最も美しい日本人に選ばれれば、日本人は当然、誤ったメッセージを受け取ると思う」
これらの批判の基準は、ひとつには国籍よりも“血統”が大事であるということだ。また、もうひとつは椎野の容姿が西洋的であり一般的な日本人とは違うというもの。つまり血筋や見た目を基準にして、疑問している。
記事では、椎名が「本当の意味で日本人として認められたいという気持ちから帰化申請したこと」や優勝について「日本人として認められたという感謝の気持ちでいっぱい」というコメントを紹介している。
また、フィガロジャポンの記事では、「人種的な壁があり、日本人として認められるのは難しいことでした。この大会で日本人として認められたことで、感謝の気持ちでいっぱいです」という椎野の優勝後の言葉を紹介している。
「日本人として認められること」が椎野にとって重要なことがわかるが、それは国籍取得だけでは達成されない問題で、人種的な壁を乗り越えていかなければならず、そのためにもミス日本に選ばれることは、日本人として認められる要点だったということなのだろう。
この点は、まさに戦前・戦中の日系アメリカ人2世の立場を思い出させる。アメリカで生まれて国籍はアメリカであっても、アメリカ人として認められない。それであればどうしたらいいのかという心理的な葛藤を抱える。加えて、日系アメリカ人2世は、市民権を持っているにもかかわらず、強制収容所に入れらるなどしてそれを享受できなかった。
話をミスコンに戻せば、ミスコンテストでは、ミス日本と同様の出来事がそれ以前にもあった。2015年に国際的なミスコンテストである「ミス・ユニバース」の日本代表に選ばれた宮本エリアナに対して、誹謗中傷が寄せられた。アフリカ系アメリカ人の父と日本人の母をもち、日本で生まれ育ち、国籍も日本である彼女は、自分と同じいくつかの国にルーツをもつ人が差別や偏見に遭っている現状をみて、そういう人たちを勇気づけたいという気持ちでコンテストにでたという。しかし、「日本人らしさ」を疑うなどの中傷を数多く受けた。
さらに「ミス・ワールド2016世界大会」の日本代表に、インド人の父親と日本人の母親をもつ吉川プリアンカが選ばれたときも、選考に対して「日本人らしさ」という観点からの批判や不満が寄せられた。
「日本人」は定義不能
椎野カロリーナが優勝したミス日本コンテストを主催する「一般社団法人ミス日本協会」は、ミス日本コンテストのコンセプトについて、「『日本らしい美しさ』を磨きあげ、社会で活躍することを後押しする日本最高峰の美のコンテストです。美しさとは見た目の容姿だけでなく、心の持ちようや社交性など幅広い人間性が問われます」と、うたっている。
「容姿だけでなく日本らしい美しさ」を競うコンテストということで、これ以外には、具体的な条件や基準はない。「日本らしい美しさ」があると審査員が判断すれば、国籍や血筋などは関係ないことになる。
したがって、理屈の上では批判があるのであれば、審査基準やコンテストそのものを批判すべきである。事実、「日本的な美」を基準にすべきという意見もあった。しかしその意見が示す日本の美とは、外見的な話であり、それならば「見た目が古典的な日本人的であること」などという具体的な基準を持ち出す必要がある。
逆に言えば、単に「日本人らしさ」あるいは「日本人」とは何かという問いの答えは、大規模なアンケートでもとれば、分類化することはできるかもしれないが、一つに定義することはできないだろう。一例を挙げれば、アメリカ国籍のノーベル賞受賞者のなかに日本国民の多くが国籍に関係なく「日本人」だと思っている人がいる。
ミスコンから派生したこの問題について、社会学者の福岡安則が、朝日新聞の「オピニオン&フォーラム欄(4月10日付け)」でこう言っている。
「日本人とは何か。それは定義不能で、問題設定そのものが虚偽だと思います。定義可能なのは国籍法による『日本国民』だけです。にもかかわらず、自分が典型的な日本人だと信じているこの国のマジョリティーはまるで自明であるかのような『日本人』という観念の保持しています。」
さらに続く彼の言葉から解釈すれば、日本には歴史的に多様な背景をもった人々がいるにもかかわらず、自分が典型的な日本人だと信じている人たち(これマジョリティーになっている)が、「日本人」という観念を個人的に作り出し、それに基づいて「日本人は・・・」とか「日本人らしく・・・」などといい、外国にルーツをもつ国民に対しては違った「日本人」像を描いているということだろう。
「日本人」そのものが定義不能であれば、「日系」はさらに定義不能であることは言うまでもない。この点については、回を改めて「国籍」の問題とともに考えてみたい。(敬称略)
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