英語で落語をきかせる「英語落語」を日系社会をはじめ世界で広めている鹿鳴家英楽さん。このほどアメリカ・ミズーリ州のセントルイスで開かれた「セントルイス日本祭」に主演者として招かれて英語落語を披露した。アメリカをはじめ海外で落語はどのように知られているのか。日本のユーモアがどう理解されているのか、また、落語のほかにも日本人が活躍しているストーリーテリングなどについてきいた。
日本文化への誇り
川井: アメリカの日本人や日系アメリカ人は、落語をどのようにとらえていると思いますか。落語を伝統文化としてとらえ、評価しているのでしょうか。
英楽: 日本祭のスタッフとして、日本人も日系人も積極的に関わっていましたが、落語に限らず、日本文化にとても誇りをもっているように感じました。日本文化の中で、落語の認知度はまだまだ低いので、これからの分野といえます。
川井: 落語自体は、アメリカや南米では、移民やコミュニティーの間で、芸能として戦前から親しまれていたのでしょうか。戦時中、日系人の収容所内では落語が余暇などとしておこなわれたという記録はあるのでしょうか。
英楽: 1961年に、新日米新聞社が『米国日系人百年史』という1400ページを超える本を出版しており、戦前から戦後にかけての芸能についても結構ページを割いているのですが、残念ながら、落語や講談に関する記述はありません。歌舞伎、新劇、義太夫、日舞、長唄、琴、尺八、筑前琵琶、などは19世紀の終わりごろから西海岸で演じられていますが、落語についてはわかりません。収容所でも落語会が行われていたという記述は、私は見たことがありません。
日本の演芸、落語、講談、浪曲、の3つのうち、日系人が最も興味を持ったのは、浪曲です。ジャーナリストの伊藤一男が『北米百年桜』で紹介しているのが、桃中軒浪右衛門という、佐賀県出身の浪曲師です。「浪さん」の愛称で、20世紀の初頭、ハワイやロサンゼルスで活躍しました。浪曲を活かした活動弁士としても人気があったようです。タイムマシンがあったら、浪さんの活弁を見たいと思っています。
菊地日出男というロサンゼルスの帰米二世も特筆すべき人物です。1923年生まれの菊地さんは、戦後、漫談、浪曲、都々逸、腹話術など、さまざまな芸能にチャレンジし、日本文化の継承と発展に寄与した人物として知られていますが、やはり、落語は入っていません。
海外文化に合わせてアレンジ
川井: 英語落語は、古くはいつごろから、外国人に伝わるようになったのでしょうか。英語で落語を学ぼうという人は増えていますか。海外では、落語の認知度を高めるためにこれからどのような活動をしていきますか。
英楽: 1983年に上方の人気落語家、桂枝雀さんが始めたとされています、1984年にペンシルバニア州で「夏の医者」という噺を演じています。以降、1996年まで、アメリカ本土だけでなく、ハワイやカナダでも英語落語会を開催しています。YouTubeにあがっている彼の英語版「動物園」、上方では「ホワイトライオン」という題で演じられることが多いようですが、後の多くの落語家がこれを参考にして英語版の動物園を演じています。
彼が1988年に書いた『枝雀のアクション英語高座』(ノンブック)は、比較文化論の見地からも見ても興味深い名著だと思います。この本に、彼が英語で創作した「ロボットしずかちゃん」という噺の台本が収録されていますが、この噺は、1988年の高校の英語の教科書(第一学習社)に採用されました。1980年代、英語落語の普及に貢献したのは間違いなく、桂枝雀さんです。1999年に亡くなった後、何名かの落語家が彼の後を継ぐように英語落語をはじめましたが、私もまた、彼に強い影響を受け、英語落語をはじめた一人です。
ビジネス英語で有名な杉田敏さんも英語のユーモアや落語に大きな興味を示し、『和洋小咄笑之接点』(朝日イブニングニュース社 1981)に、「粗忽の使者」の英語台本を掲載しています。著者自身も、この本は気に入っているとおっしゃっていました。
通訳ガイドの中山幸男さんも早い時期から英語落語を始めていたようです。中山さんは、2000年代にIBCパブリッシングから、英語落語の本を2冊、光文社から1冊出していますが、もうお亡くなりになっているので、いつ始めたか、今となっては確認できません。通訳ガイドのなかでは、英語落語に興味を持つ方が多いです。落語の短縮版や英語小噺を、ガイドに中にエキスとして入れると、お客さんも盛り上がるそうです。私の英語落語教室の生徒の中にも、通訳ガイドをやっている方が何人もいます。
英語落語を学ぶ人は増えていると思います。中学の英語の教科書にも一時、「動物園」、「時そば」、「ドーナッツ怖い」(まんじゅう怖いのパロディ)が掲載されており、それに触発された中学生や、教員もいます。子どもたちに教えるにはまずは自分が学ばないといけない、ということで、私の英語落語教室に通うようになった教員もいます。私の生徒には、高校生もいて、ニュージーランドに1年間留学した時に、現地で寿限無を英語で演じていた、と言っていました。
海外での展開ですが、今、アメリカ、イギリス、ニュージーランドに私の弟子がいます。彼らが現地で拠点をつくり、私がそれに加わって一緒に英語落語会を開催する、という形が一番望ましく、日本人だけが海外に出かけてやるより、認知度の高まり方も早いと思います。彼らだけに任せてしまうと、落語が違う方向に行ってしまう可能性があるので、一緒にやるのがいいと思っています。
川井: 落語は庶民の生活をもとにした話で、ユーモアのなかに多分に自嘲的なところや自虐的なところがあります。とらえようによっては、日本人そのものを笑い飛ばしているともいえますが、この点について、日系アメリカ人など日系の外国人と、外国人とでは捉え方が違うということはありますか。
英楽: 落語の笑いは庶民のもので、子どもが大人をからかって、笑いを誘う。女が男をからかって、笑いを誘う。男尊女卑の江戸の世の中で、それが逆転している世界だからこそ、落語は面白く、庶民から愛されたのだと思います。ですから、私は落語の笑いに自虐性は感じませんが、外国人からすると、噺によっては意地悪、と捉えられることがあるようです。たとえば、「まんじゅう怖い」や「壺算」などは、うまく騙してやろう、という噺なので、騙される側が、普段、いけすかない奴、と設定にしておかないと、意地悪な話、と捉えられてしまう可能性があります。
与太郎はバカの代名詞で、八五郎や熊五郎にいじられますが、いじられながらも、皆に愛され、コミュニティにしっかり受け入れられ、溶け込んでいる、その部分を描くように心がけています。「犬の目」なんていう噺があります。犬の目をくり抜いて、人間の目を治すのですが、動物虐待と思う外国人もいるかもしれません。でも、外国人でも、普通にこの噺を楽しむ人がいて、反応は様々です。
英語にして改めて知るユーモア
川井: さまざまな国で英語落語を披露してきたなかで、アメリカ以外のイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、デンマーク、ラオス、ジョージア、カザフスタンなどでの公演はどのようなものでしたか。印象に残る公演を教えてください。また、国によって、受け取るユーモアのポイントや笑いの文化の違いを感じることはありますか。具体例があれば教えてください。
英楽: よく、イギリス人は、皮肉が効いたユーモアを好む、と言われますが、私は、イギリスで公演した時に、アメリカ人の反応と変わらないと思いました。同じところでよく笑ってくれます。日本語でやる場合の笑いのつぼも同じです。落語の笑いは普遍的なものだと思います。「寿限無」は日本語でやるよりも英語でやるほうがうけるくらいです。笑いの多い「子ほめ」は名作と言われますが、英語でやってもよくうける。
英語でも名作の地位は揺るがない。落語を英語でやることにより、落語が話としてよくできていることを実感します。そういう意味で、落語を英語でやることにより、より深いところで落語の面白さ、深さを理解できるようになると私は思っています。これは、日本語でしかやっていない方にはわからない部分です。
たとえば「寿限無」をイギリスでやった時、日本語では笑いが起きないところで笑いが起きました。寿限無の母親が赤ちゃんの寿限無をあやした後、こんな地の文が入ります。
「この子が大きくなりまして、学校に行くようになります」
英語訳は単純なもので、「He grew up and started to go to school.」なんですが、英語でこの文章を言った後、笑いが起きたんです。舞台で演じていて、「ええ!この文章の何が面白いの?」と少し動揺しました。後から聴衆に聞いてみると、「寿限無寿限無五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末雲来末風来末〜」と、母親が子どもの名前を呼んでいるうちに子どもが大きくなった、というように聞こえるのだそうです。これは日本語をやっているだけでは、考えもつかない反応で、こういうところも、英語落語をやっている醍醐味と言えます。
英語落語の公演では、ワークショップも入れることが多いです。まずは、落語の上下(かみしも)や、扇子、手拭いの使い方を説明します。その後、こちらから小噺をいくつか用意して、聴衆をグループに分けて練習してもらい、希望者には高座に座ってやっていただきます。特に学校公演では、これが非常に盛り上がります。ニュージーランドやラオスでも実施しましたが、生徒から見れば、仲間が舞台に上がって演じるわけですから、興味津々といったところでしょう。
デンマークでは、ワークショップの参加者が演劇人だったこともあり、本格的なワークショップを行いました。落語の解説の後、参加者本人の作品や、デンマークの笑話や民話などを落語の形式で語る、というもので、私にとっても、非常に興味深いものでした。ここまでくると、公演というより、文化交流ですね。こういったワークショップにより、英語落語がよりその国にとって身近なものになり、英語落語のレパートリーも増えていくのではないかと思います。
日系社会への仲間入り
川井: アメリカの二世ウィークというのはどういうものですか。他の日本祭とは違う点がありますか。
英楽: 二世ウィークは1934年にロサンゼルスのリトル東京ではじまった日系人の祭で、今年で90年になりますが、戦時中の空白やコロナ禍の空白があるので、今年で82回目。1934年というと、大恐慌からまだ間もないので、祭は経済復興の意味があり、また、一世から二世への橋渡しの意味もあったようです。今も名称は二世ウィークのままですが、「帰属文化に関係なく、だれもが日本の伝統文化を祝う機会」と捉えられています。
私が参加した2015年は75周年でした。二世クイーンと呼ばれるミスコンテストや、七夕祭り、青森のねぶた、などの催しが行われます。女優のタムリン・トミタは、大学生だった1984年にクイーンに選ばれています。祭の最後には、著名な日系人をオープンカーに乗せたパレードが行われます。これまで、俳優の早川雪州やジョージ・タケイがパレードの主賓(グランド・マーシャル)をつとめています。ですから、他の日系祭に比べて華やかな印象があります。
2015年の夏、現地の日本人、タック嶺井さんの協力を得て、二世ウィークに参加できたことは、日系社会に自分も仲間入りしたような気がして、とてもうれしく、また光栄なことでした。リトル東京の都ホテルで落語会を開催させていただきました。今、大谷翔平の雄姿が外壁に描いてあるホテルです。会場は満席で、お客さんもよく笑ってくれました。祭が終了してから、表彰状をいただき、いい記念になりました。この祭で知り合った、絵本作家のサニー関さんとは、この後、アリゾナの日本祭で何度かお会いしています。二世ウィーク祭は毎年8月に行われますが、またいつか参加したいと思っています。
川井: セントルイスでは、アメリカでストーリーテリングの演芸をしている日本人と交流したと聞きましたが、ストーリーテリングとはどういう演芸、エンターテインメントなのでしょうか。なにをどのように語るのでしょうか。お笑いのひとつですか。
英楽: 日本祭で、ヤス・イシダという日本出身のストーリーテラーに出会いました。オハイオを拠点として、プロのストーリーテラー、及びマジシャンとして主に中西部で活動しています。各地の日本祭に出演したり、学校公演などを行っているそうです。
今回も、セントルイス日本祭の後、すぐに他の日本祭に出演すると言っていました。日本出身のストーリーテラーは、彼をはじめ全米に4人しかいないそうで、「英楽さんも拠点をアメリカに移しませんか」と、何度も誘われました。すぐにそんなわけにはいきませんが。
ヤス・イシダさんや彼の師匠格にあたるクニコ・ヤマモトさんらの芸を見ると、落語や民話のストーリーテリングだけでなく、マジックやけん玉、玉すだれ、折り鶴、お面、楽器、などを使った視覚的な部分も大きく、子どもたちにもわかりやすい芸能になっています。ヤスさんは、和妻の「胡蝶の舞」も演じています。お笑いというよりは、全体として、日本文化の紹介、といったニュアンスの強い芸です。
ヤスさんのお笑いネタの一つは、日本人の英語の下手さは日本人にあるのではなく、日本で使われている教科書が悪いという話。「This is a pen.」などという、一生で一度も使わないような文章を習っているからダメだのだ、というもので、日本人が外国で笑いをとる際の定番ともいえるジョークです。若干、自虐性がありますが。
アメリカやイギリスでスタンダップコメディをやっている日本人も増えていて、こちらの方がストーリーテリングよりも笑いに直結する芸です。80年代から90年代にかけて、タマヨ・オオツキという日本の女性コメディアンがアメリカで活躍していました。私がアメリカにいた1984年、タマヨはロサンゼルスにあるコメディハウスの前座をつとめていました。
「日本人というと、眼鏡をかけて紺の背広を着て真面目、というイメージがあると思いますが、そんなことはありません。日本人もアメリカ人も一緒です。日本人の男もスケベなんです」なんてやっていました。その後、人気が出て、ラスベガスなどでも公演するようになりました。
「今のアメリカ人は甘やかされています。自分が子どもの頃は、学校へ10マイルも歩いて行ったもんだって、親から聞かされて育ったでしょう。私は親からこう言われて育ちました。自分が子どものころは広島と長崎に原爆が落とされたって」
アメリカ人の反応は微妙ですが、こんなことをスタンダップコメディでさらっと言うタマヨはすごいと思う。原爆の話題をスダンタップでとりあげるなんて、タマヨしかできない。90年代に日本で『コメディ+LOVE TAMAYO的差別の乗り越え方』(解放出版社)など、数冊本を出していますが、何をしてでもアメリカで生き抜いていくという、彼女の凄まじい人生がよくわかります。彼女のコメディは、言論のタブーの多い日本ではあまり受け入れられなかったですが、私は好きでした。
川井: セントルイスでの「日本祭」を含めて、これまでのアメリカ公演は、どのようなきっかけで行われたのでしょうか。英楽さんからアプローチしたり、招待されたりしたのでしょうか。
英楽: こちらからアプローチしたり、招待されたり、いろんなケースがあります。最初の二世ウィーク祭は、私の生徒の一人がロサンゼルスにコネクションがあり、現地の日本の方に動いていただき、実現しました。その活動が現地の「羅府新報」などのメディアに取り上げられ、それを見た方が、アリゾナでも是非、ということで、翌年、アリゾナ祭に参加することができました。現地で動いてくれる方がいないと、実現しないですね。これは、日本の地方公演でも同じですが。
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