堀江満智さんの研究から
ロシアのウクライナ侵攻後、ロシアと日本との歴史的な関係を研究している日本人のなかからは戸惑い心配する声が聞かれる。京都市在住の堀江満智さんはそのひとりで、堀江さんの祖父と父は、戦前ウラジオストクやカムチャッカに移住し商店経営をしていた。堀江さんがまとめた研究の一部や堀江さんに寄せられた同様の研究から、戦前のカムチャッカでの日本人の活動について紹介したい。
堀江満智さんは、1940年に京都市で生まれ、同志社大学を卒業後、中学教諭をつとめるかたわら、ウラジオストクなどに足跡のある祖父をはじめとする家族の遺品から日ロ交流史を研究してきた。日本ユーラシア協会京都府連と全国の理事をつとめ、「ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの」(ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会企画・編集、東洋書店、2005年)の著作がある。「ロシアとの間にあった民間レベルの交流の歴史を、家族のルーツを軸に後世に残したい」という気持を強く持っている。
堀江さんの所属する日本ユーラシア協会とは、「旧ソ連諸国民との相互理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とし、文化活動、学術交流、人の交流からロシア語・諸民族語・日本語教育、経済交流、環境保護、チェルノブイリ・セミパラチンスク被害者救援、核兵器廃絶、日ロ平和条約締結促進にいたるまで、さまざまな活動を行っている」。(同協会HP)
日本の漁業基地が置かれた
いま、ほとんど話題になることがないカムチャッカ半島は、北海道から日本の北方領土の先に連なる千島列島の反対側、北緯57度、東経160度、オホーツク海を挟んで樺太の東側に位置する。面積は472,300平方キロメートルで、中心都市はペトロパブロフスク・カムチャツキー。ロシア人、スラヴ系、先住民が住んでいる。
ロシアへのツアーも企画していたユーラシア旅行社では、かつてウラジオストクやカムチャツカ半島へ、定期運航便を利用して成田空港から、ウラジオストク経由で、カムチャツカのエリゾヴォ空港へ向かう旅を企画、実行していた。夏季にはチャーター便によりエリゾヴォ空港まで直行することもできた。しかし、2022年2月にロシアがウクライナへ侵攻して以来、こうした企画は途絶えてしまった。
近代になってから、日本とロシアとの関係でカムチャッカの位置づけをみると、まず1855(安政元)年2月7日、「日露和親条約」によって、択捉島とウルップ島の間に日露の国境が定められた。それより北のカムチャッカは当然ロシアである。しかし樺太はこれまでどおり両国民がともに生活することになった。
その後、1875年、樺太をロシアの領土とするかわりに、千島列島を日本の領土とする「樺太千島交換条約」が結ばれた。さらに1904年の日露戦争の結果、日本とロシアの間で結ばれたポーツマス条約によって、日本はロシアから樺太の南半分をゆずりうけ、カムチャツカ半島沖合での北洋漁業操業権も獲得した。その結果、半島の各地に日本の漁業基地や加工場が置かれるようになり、日本人が定住するようになった。
ウラジオストクからカムチャッカへ
これより半世紀ほど前、ロシアは清国との条約でアムール川左岸を領土とすると、開拓に力を入れ港町ウラジオストクでは、多くの外国人が商会を開設し、日本の各地からも現地で商店を開く人が出た(※これについては、「第9回 続・ウラジオストク、日系の足跡」で触れた)。このなかに、堀江さんの祖父もいた。
以下、堀江さんがまとめた「 カムチャツカに新天地を求めた日本人—100年前の居留民の事例から」をもとに、堀江家のウラジオストク、カムチャッカとの関わりをなぞってみる。
堀江さんの祖父、堀江直造(1870〜1942)は 1892(明治25)年から1921(大正10)年まで浦潮(ウラジオストク)に住んでいた。直造は、ウラジオストクで、堀江缶詰工場を経営するかたわら、当地の日本居留民会会頭、商工会副会頭、西比利亜商事社長などをつとめ、日本人の生活に深く関わる史料(日記、写真、手紙、絵葉書、感謝状等)を遺した。また、祖母の萬代(1898〜1922)も、開拓期の暮しを日記に記した。
堀江さんの父、正三は、直造の妹の三男として京都で生まれ、五歳の時にウラジオストクにいる直造の養子になった。当時、ウラジオストクには日本人コミュニティーが発展し、日本人の小学校も開設され、正三はその日本小学校で学んだ。卒業後は日本へ行き早稲田中学から東京外語専門学校ロシヤ語科に入り、1919(大正8)年春に卒業した。
卒業後は、ウラジオストクに戻り直造の店を手伝った。しかし、間もなくして自分の道を拓こうと、1919年12月、カムチャッカ半島に入り、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに堀江商店出張所を出し、ロシア人の家に下宿した。
「このころの現地の新聞には、日本の電気屋などの個人商店の広告が掲載されていて、日本人の活動の様子がわかります」と、堀江さんは話す。
しかし、やがて状況は悪化する。当時、ロシアは1917年の二月革命でニコライ2世が退位したことで帝政が終わり、共和政の時代を迎えた。臨時政府が発足しケレンスキーが首相となったが、第一次世界大戦を継続する方針をとった(やがてケレンスキーはボリシェビキに倒され、亡命)。
このため、国内の経済状況は厳しくなり、現地での正三は日本との経済、文化交流を夢みたもののうまくいかず1922(大正11)年にカムチャッカから撤退した。それでもロシアでビジネスを再びはじめる道を探って函館に留まった。が、結局6月に京都へ引揚げた。
その後も実生活と外語大で学んだ「ロシア」への夢は断ち難く、ロシアでの就職を望んだがかなわず、1926年、28歳のときに朝日新聞に入社し、大阪本社編集局で定年まで勤めた。幼少期から24歳で日本に引揚げるまで、日露を往復しながら多感な青少年期を主にロシアで暮した正三は、カムチャツカでのスナップ写真や函館の知人20人程の住所も遺した。
カムチャツカでの日本商人の活動
『ろしや路 八杉貞利日記』をはじめ現地新聞などから、堀江さんがまとめたところによると、20世紀初頭のペトロパブロフスクには、ロシア人1019人、中国人200人、日本人44人(1920年)がいた。おもな商人は中国人だが、日本人商人もいて、雑貨や毛皮、漁業を扱う函館の会社の関係者が多かったという。しかし、ルーブル暴落、物価上昇、現金不足などから1922年、沿岸貿易は終了した。この間、ロシアで起きていた革命による、流血は少なかった。
正三は、1919年末にカムチャッカに渡ったわけだが、当時はロシア革命が進行中で、その余波が全土に広がりつつあった激動の時代で、そのさなかに正三は身を置いたことになる。
堀江満智さんと親交のあるロシア人で、カムチャッカにルーツをもつ日ロ関係研究者が、堀江さんに寄せたリポートでは、正三がカムチャッカに到着した当時は、カムチャッカでは白軍(ロシア革命期に、革命側の「赤軍」に対して反革命として戦った軍隊の総称)が、まだ政権を握っていた。
しかしその1ヵ月後の1920年1月5日、コルチャーク政権が崩壊し、1月9日深夜から10日にかけてペトロパブロフスクの政権はボリシェビキ(臨時軍事革命委員会)が掌握。正三は新しい政治体制の下でビジネスを始めた。同年4月6日、極東共和国が設立され、カムチャッカ地方も組み込まれた。
居留民2世としての正三の体験
堀江さんは、ロシアでの「居留民2世」である父・正三が生きてきた時代と体験を振り返り、かつてこうまとめている。
「居留民1世は生活基盤を整えるのに精一杯だったが、2世はロシアの文化や社会により深く関わり理解した。19世紀に花開いたロシア文化は日本でも親しまれ、浦潮は交流の入口でもあった。その後のソ連の強権政治や不幸な日露関係の中で、2世達の得た精神的財産は活かされず、『忘れられた友好、作られた敵対』の中で潰えた。ロシアになって新しい地平線が見えた今日、民衆交流の意味を再度振り返るべきではないだろうか」。
(敬称略)
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