日系人収容との類似も
第二次世界大戦中、アメリカやカナダそしてオーストラリアに敵国である日本の国民や日系人を強制的に収容していた施設があったように、日本にも敵対する国の人間に対する同様の施設があった。
このことは一般にあまり知られていないが、そのひとつが名古屋市にあったイタリア人の強制収容所だった。イタリアといえば、日独伊三国軍事同盟で知られるようにドイツとともに日本の同盟国であり、そのイタリア人がなぜ収容されるのかと疑問に思う人もいるだろう。
わたしもその一人だったが、歴史を細かくみると事情がわかる。三国のうちイタリアは1943年9月に連合国側に降伏したものの、ナチスドイツの傀儡政権として北イタリアのサローに再びファシスト政権によるサロー共和国(イタリア社会共和国)が誕生する。日本は、この政権を承認し、この政権を認めない在日のイタリア人を敵国人とみなして名古屋市天白区(当時は天白村)の強制収容所に送った。
このなかに当時まもなく7歳になる少女がいた。のちに作家、詩人、劇作家として活躍するダーチャ・マライーニ(Dacia Maraini)だ。彼女が、ながい沈黙を破って著した「VITA MIA」の日本語版「わたしの人生」が昨秋、望月紀子訳で新潮社より出版された。
はじめに彼女は言う。
「(日本と日本の強制収容所について、という)わたしにとってこの苦しいテーマに直面することは大変つらいことだった。それについていくつかの本で触れはしたけれど、収容されていた日々のことやその日々が自分の人生にどんな痕跡を残したか、それにじっくり向き合うことはなかった。いまわたしは、他の多くの元収容者の人と共有しているのがわかっている羞恥心や内気さを克服して、それに向きあわなくてはならないと感じている」。
戦時中アメリカでの収容所生活を送った日系人の多くが、収容体験を戦後長らく語りたがらなかったという話はよくきく。同じように著者もまた、収容体験という辛く屈辱的な過去は、心の片隅に閉じ込めておく方がいいと本能的に感じてきた。しかし、その一方で話すべきだという声もまた湧き上がってきたようだ。
少女は空腹で蟻も食べた
1936年生まれのダーチャ・マライーニは、父フォスコ・マライーニと母トパーツィア・アッリアータとともに1938年来日。父のフォスコは、アジアや日本文化に強い関心をもち、北海道帝国大学でアイヌ文化の研究をはじめた。その後、京都に移りイタリア語の講師を務める。
この間、日本でダーチャの弟と妹が生まれ、一家は5人で日本文化に溶け込み、ダーチャは京都弁にもなじむ穏やかな生活をしていた。それが、1943年、サロー共和国樹立で一転し、一家は強制収容所に入れられる。日本の敗戦で戦争が終わると一家は解放されやがてイタリアへ無事帰国する。
「わたしの人生」は、収容所の体験を中心に、日本に来てから日本を去るまでの著者の回想であると同時に、その体験とは切り離せない、人の生死や残虐さや、日本文化への深い考察を含んでいる。
彼女の回想をたどってみよう。1943年9月、突然、父と母は警察に呼ばれ、日本が承認するイタリアのファシズム政権(サロー共和国)への忠誠を誓うかどうかを問われた。まるで、アメリカの日系人収容所での日本への忠誠を否定するかどうかの質問のようだ。これに対して父も母も拒否した。ナチスドイツに対する認め、そして人種的偏見を認めることになるからだ。
これによって警察から「祖国のも裏切り者」の烙印を押され、一家は敵国外国人という扱いを受けることになる。3週間の自宅監禁のあと、家族そろって名古屋市の収容所に送られた。当初、子どもは孤児院に預けるように言われたが、なんとしても一緒に連れて行くことを認めさせた。その孤児院は後に爆撃を受けて子どもたちはみな亡くなった。
一家を犯罪者のように扱う、高圧的な警察官に駆り立てられ、トランク1つを携えトラックで連れて行かれた収容所は、有刺鉄線で囲まれた二階建てで、三部屋に16人が押し込められた。衛生状態は悪く、寒く、食事も満足なものは与えられなかった。日本政府は収容所に食料を配布していたが、監視にあたる警察官たちがこれらを隠匿してしまった。
ノミやシラミに悩まされ、栄養不足、睡眠不足などで疲労困憊し、脚気になり、鼻血は出て、足はむくみ、脱毛などの症状も出た。それを警官たちは平気で見てみていた。収容所の近くで捕まえた蛇の皮を剥いで焼いて食べ、母は草や花が食べられるか試し、ダーチャは空腹のあまり蟻をつまんで食べて腹をこわした。
たまに十分な食事がでるときは、赤十字の関係者など外部からの視察があるときだった。警官たちは処遇をカモフラージュしていた。こうした劣悪な環境の中でも収容所のイタリア人は、話し合いでことにあたったが、体力的に消耗していく中で険悪な雰囲気にもなっていった。
やがて、日本にとって戦況が悪くなり、名古屋も空襲にも見舞われ、さらに地震による被害をこうむり、収容者は、現在の豊田市のお寺に移送されることになった。
自然に囲まれた寺での生活は、一家に安らぎを与えた。近くに住む寺の住職一家は親切で、ダーチャはそこの孫娘と友だちになる。周辺の農家の日本人とも交流するようになり、監視もゆるくなっていき、やがて警察官が逃げ出してしまい、終戦とともに放り出されるようにして解放される。米軍の飛行機が上空を飛び、収容者に向けて食料を投下した。日本の社会を支配するものが変わった。
抜け目のない警察官は逃げ、「戦争に勝ったらおまえらの喉を掻き切ってやる」と言っていた警察官は、憐れみを請いながら一家に物資をねだりに来た。ダーチャは、お世話になった日本の友だちや家族にチョコレートをあげた。「農家の人たちの態度はとても立派だった」という。物乞いをするのでなく、缶詰とお米の交換を申し出たからだ。
“日本の少女”
このあと、一家は東京へ行き、アメリカの船に乗りイタリアのシチリアに帰った。一家の故郷ではあるが、物心ついてから日本で暮らしてきたダーチャにとって、イタリアの生活は未知の水に飛び込むようなことだった。
「自分は家族の過去を知り、その未来をつくるためにイタリアに来たけれど、祖国の風習や習慣をほとんど知らない日本の少女だと思っていた」。
およそ7年間、日本で幼少期を過ごしたダーチャは、日本文化にすっかりなじみ、イタリア人であるというアイデンティティーより京都弁を話す「日本の少女」というアイデンティティーを自然にもつようになったのだろう。言い換えれば“日系”となったのだ。それが収容所に入れられ、自分たち家族やイタリア人が敵対視され、差別されることでイタリア人であることを自覚し、複雑な思いを抱くようになる。
こうした二重のアイデンティティーから生まれる問題は、同じ時期にアメリカで収容されていた日系人のなかも生じていたことだ。自分自身の内面に葛藤を抱えながら、同時に自分のアイデンティティーと、個人に立場を強いる国家との間の軋轢という問題である。
ダーチャの話に戻れば、日本の少女でもあった彼女からすれば、日本から受けた仕打ちに、怒りや辛さなど複雑な感情が長年渦巻いていただろう。しかし、収容所で残忍な扱いを受けながらも、人種や国家ではなく人や文化をみつめる。国や国民を断罪するのではなく、悪や不条理の根源を問い詰めていくダーチャ・マライーニの言葉には共感を覚える。
なお、本書の訳者が、2015年に「ダーチャと日本の強制収容所」(未来社)を出版。また、ダーチャの妹で作家のトーニ・マイラーニの娘、ムージャ・マライーニ・メレヒが、一家の収容の足跡をたどったドキュメンタリー「梅の木の俳句」(音楽、坂本龍一)を2016年に公開している。
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