バイリンガル教育の効能が喧伝される昨今、思い至るのは1930年代のブラジル日系児童・生徒たちの言語生活である。当時の多くの日系の子どもたちは、午前中はポルトガル語でブラジル正課の授業を受け、午後からは日本人学校に通う(あるいはその逆)というバイリンガル生活を送っていた。同じ校舎で、半日はポルトガル語、あとの半日は日本語という学校も少なくなかった(写真7-1)。
RY氏はサンパウロ州アリアンサ出身の日系二世。見事な日伯語のバイリンガルで、1930年代の子どもの頃に歌ったというガット童謡を紹介してくださった。ガット童謡とは、1930年代後半に有限責任ブラジル拓植組合(ブラ拓)によって組織された「ガット運動」の一環として作曲された童謡である。「ガット」とは 、ポルトガル語の「Gozar a Terra」の意で「愛土永住」を意味し、それまでの出稼ぎ的な移民方式から脱皮しようとする社会文化運動であった。RY氏が紹介してくださったガット童謡は、次のような「第二の故郷」というものである。
第二の故郷
一、パパイヤママイニツレラレテ
妹ヤ弟トモロトモニ
オ夢ノオ国ヘ来マシタガ
今デハ嬉シイ故郷デス
桜ガ咲イテタ日本ガ
実ニオ夢ノ故郷デス
三、午前ハ日本小学校
昼カラ グルツポ、エスコラール
眼色ノ異ツタ友達ト
チツトモヘダテズオ互ニ
仲ヨク勉強致シマス
仲ヨク皆デ遊ビマス
(二番略。旧漢字を新字体に改めた)
このガット童謡は、RY氏に複写していただいた歌詞よると、藤村嘉久子作詞、長谷基孝作曲、奥山貞吉編曲で、飯田ふさが歌い、正確な年代はわからないが、日本コロムビア・レコードから出されたものだ。ブラジルの土地を愛する運動で日本語の歌詞を歌うというのは矛盾を感じないでもないが、日本語教育の方便でもあったのだろうか。「パパイ」(お父さん)、「ママイ」(お母さん)、「グルツポ、エスコラール」(小学校)といったポルトガル語がちりばめられ、ブラジルが「今デハ嬉シイ故郷」、日本が「オ夢ノ故郷」と、日系二世のアイデンティティの二重性が歌いこまれている。また、三番では、「午前ハ日本小学校、昼カラ グルツポ、エスコラール」と、午前中は日本人学校に通い、午後からはポルトガル語で授業を受けるという日課が当然のように歌われている。
苦学生の救済と海外発展を目的に、1897年に島貫兵太夫(1866~1913)によって設立された日本力行会は、ブラジルに多くの移住者を送り出した。ブラジルの日系子女の教育に貢献する人物も多く輩出しているが、1940年に、米国・カナダ・ブラジル・ペルーなど、諸地域の日系小学生の絵画・書道・作文などの作品を集め、「皇紀二千六百年記念・日本民族小学生作品展」というコンテストを開催している。これらの作品は、『皇紀二千六百年記念・日本民族小学生作品集』(1940)にまとめられ掲載されているが、次の作文は当時のブラジル・サンパウロ州内陸部に住む日系子女の生活をうかがう上で興味深い。
日本のお友達へ
ブラジル国パウリスタ線東京植民地小学校五年 馬場謙爾
今日先生から二千六百年祭のお話をき々ました。僕はブラジルで生れましたが日本人であることを大へんありがたいと思ひました。
ブラジルは今ちようど夏です。大そう暑う御座います。今はどちらを見ても畠はみんな植付してあります。もう早蒔の芽が出て靑々として居ます。僕達の住んでゐる所はサンパウロ州パウリスタ線、モツカ驛から三粁ばかり離れた植民地です。名は東京植民地といひます。(中略)
朝八時から晝までブラジル語を習つて晝から日本語を習つてゐます。日本語は主に修身、算術、讀本を習つてゐます。先生やお父さん達から日本のお話をきく度に僕も一度日本へ行つてみたいと思ひます。そうして日本の美しい景色や櫻を見て富士山へも登つてみたいと思ひます。僕はまだ新聞がよく讀めませんが先生や日本の兵隊さんの強いことを聞く度に僕も兵隊さんに負けぬやうに一生懸命勉強してお國の爲につくしたいと思つて居ます(日本力行会, 1940)。
東京植民地は、馬場直(すなお)らによって、1915年に開かれたもっとも古い日系植民地の一つで、サンパウロ州パウリスタ鉄道線、モツカ駅付近にあった。この作品には、筆者の馬場少年が午前中はブラジル語(=ポルトガル語)、午後からは日本語というバイリンガル生活を送っていたことが記されている。「主に修身、算術、讀本を習つてゐます」と、日本人学校での科目も明記されており、14歳未満の者に外国語教授が禁止された1938年以降においてなお、日本語教育や修身科が行われていたことも注目に値する。この日本人学校の一隅には、東京植民地神宮という南米最古の神社があったと言われている(太田, 2007)。
日系植民地、修身、神社とそろうと、作文の内容ともあいまって、「忠君愛国的教育」「皇民化教育」1という言葉が頭をよぎるが、「皇紀二千六百年記念」ということで、ことさらそのような作文指導がなされ、目的にかなった作品が選ばれたのかもしれない。先のRY氏が学んだアリアンサの小学校には、皇民化教育とセットであったはずの御真影や教育勅語の奉読はなかったという。同地区の第一アリアンサ小学校に学んだ同じく二世のSM氏は、1940年に長野県に留学し、戦後ブラジルに戻ったいわゆる帰伯二世だが、長野の小学校で最初に驚いたのは、校長先生がうやうやしく教育勅語を奉読する儀式だったという。アリアンサ移住地は、「銀ブラ移住」とも呼ばれたほどインテリの多い日系コミュニティで、リベラルな空気が横溢していた。つまり、アリアンサ地区の日本人学校に見られるように、戦前期ブラジル日系教育機関で行われた教育は、もちろん遠隔地ナショナリズムの傾向が見られるものの、一概に「忠君愛国的教育」や「皇民化教育」だったとは言い切れない。東京植民地を創設した馬場直夫妻も、熱心なクリスチャンであったことが知られている。
ともあれ、農村部においては10歳を過ぎた子どもは立派な労働力で、学校に満足に通えなかった人も多いと聞く。農作業の手伝いに加え、日ポ両語による午前と午後の授業、小さい弟や妹たちの世話、夜はランプの灯りのもとでの読書など、日系の子どもたちの生活は、ずいぶんあわただしかったものに違いない。
ブラジル日本移民百周年を記念して出版された『目でみるブラジル日本移民の百年』(風響社, 2008)には、日系移民の生活世界を垣間見せる多くの貴重な写真が掲載されている。その中の一つ「日本語学校、1930年、サンパウロ州ニッポランジアにあった育英舎の先生と生徒たち」(p.65)は、荒々しい木の壁に瓦葺きの素朴な校舎の前で、中央に先生らしき人物と二十数人の子どもたちが遊んでいるめずらしいスナップである。背広を着用した先生らしい人物が見守る中、ほとんどが裸足の子どもながら、体操をするものあり、野球をするものあり、男の子たちも、女の子もたちも実にのびやかな動作で写っている。子どもはどこに行っても子どもなんだなと、思わず微笑みがこぼれそうになる一枚である。
われわれは、やはりブラジル日系教育史における子どもと教員の生活の多様さを追究し、多面的にその世界を見ていく必要があろう。今回から数回に分けて、日本人学校の元教員と元児童・生徒たちのライフヒストリーを中心に、戦前・戦中期ブラジルの日本人学校をめぐる生活世界のひとコマを素描する。インタビューや作文、歌詞、新聞記事などを手がかりにして、彼らのとりむすんだ関係や教育体験、生活、意識について描き出していければと思う。
注釈:
1. ブラジルにおける日本移民子弟に対する日本語教育の理念は、たとえば、野元菊雄(1974)によると、「日本と同様、皇民を育成することにあり、教育勅語の精神を基調とした忠君愛国的教育であった」(p.17)とされる。また、いわゆる植民地の多くの日系教育機関では、前山(2001)が指摘したような「天皇崇拝シンボリズム」と呼ぶ儀礼コンプレックスの実践を通じて、皇民化教育(すなわち真の「日本人」になるための教育)が行われたとされている(p.55)。
参考文献
太田宏人(2007)「南米最古の神社/ 東京植民地神宮の夢」http://huaquero.blogspot.com/2007/09/76_04.html [access:2009/07/25]
日本力行会編(1940)『皇紀二千六百年記念・日本民族小学生作品集』日本力行会
野元菊雄(1974)「ブラジルの日本語教育」『日本語教育』24号,日本語教育学会pp.15-20
ブラジル日本移民史料館・ブラジル日本移民百周年記念協会百年史編纂委員会編(2008)『目でみるブラジル日本移民の百年』風響社
前山隆(2001)『異文化接触とアイデンティティ』お茶の水書房
[付記] 東京植民地については、同植民地出身の赤間エルザ澄子さんからお話をうかがった。
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© 2009 Sachio Negawa