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アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)
(英語)戦争花嫁、彼女たちはそう呼ばれ、妻も初期に渡米した1人でした。彼女が1番最初だったかもしれません。しばらくすると、彼女は、というか僕らは、カリフォルニアのルーカディアに住む、素晴らしい日系人一家と出会いました。僕らの家があるエンシニータスより少し北の方です。イトウ家には、お母さんとお父さん、3人の子供たちがいました。子供はもっと多かったかもしれません。素晴らしいご家族で、僕らを受け入れてくれました。
僕らの娘は、1952年ラホヤで生まれました。彼女はそんな歳には見えないので、怒るかもしれませんね。とにかく玻満子は、それまで赤ちゃんと接したことがなかったので、どうすればいいかわからなかったのです。イトウ夫人が、玻満子に赤ちゃんのお風呂の入れ方やおむつの替え方を教えてくれました。僕らはイトウ家と本当に親しくなりました。イトウ家の娘さんは、今でも妻ととても仲が良いのです。
僕らは半分日本的な生活をしていました。僕と玻満子がソラノ・ビーチに来たばかりの頃、僕の家族、僕には叔母や叔父などがいましたが、皆が集まってくれました。そして玻満子を心から歓迎してくれました。数か月前まで玻満子は敵性外国人でしたが、何の問題もありませんでした。彼女は、「ジャップ」などという言葉を聞くこともなく、人種的憎悪の標的とされることもなく、僕の家族に愛されました。僕の父に至っては、僕以上に彼女のことを気に入っていたんです。僕にはちゃんとわかっていましたよ。
日付: 2012年1月26日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ハリー・シュナイダー氏(1916年生まれ)は、東京に駐在したアメリカ陸軍情報部隊員でした。ハリーは日系人ではありませんでしたが、事務処理能力の高さを買われ、サンフランシスコの陸軍情報部 (M.I.S.) 研修プログラムに採用されました。その後ハリーは二世兵士と共に日本語を学習することに関心を持つようになりました。第二次世界大戦直後の1948年、ハリーは妻の玻満子(はまこ)と結婚しました。第二次世界大戦終結時、アジアの「戦争花嫁」が米国へ入国するには、特別立法の制定が必要でした。1950年、ハリーと玻満子は米国に入国するため、東京の日本領事館で再び結婚し、2人は米国に渡った最初の夫婦の一組となりました。2013年6月、ハリーは97才で亡くなりました。(2014年6月)
戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)
第二次大戦中の排日感情(英語)
カナダの一世ビジネスマン(1918年生)
戦時中に取り上げられた運転手としての仕事
笠戸丸移民
姉妹4人が国際結婚
横浜出身の戦争花嫁(1937年生)
政治権力の欠如が収容所の一因(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
東へ移住か渡日かの選択(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)
1941年12月7日の記憶(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
戦後日本行きを志願(英語)
MISで出会った本土からの日系人(英語)
当時の収容所に対する認識(英語)
親不孝
アメリカ占領下の日本(英語)