https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1427/
戦争花嫁(1925年生)
私が放送局に行ったときに、私が5階に、私が働いていたとこは5階なんです。彼のオフイスは6階なんですよね。それでもって、まぁ、「今度の会うときはどこそこで」、でも、ほんのちょっとしか会わなかったんですね。それも、人目に触れないところばかりで。私はみんなみたいに、あの頃たくさんの日本人の女の人が、外国人と一緒に歩いていましたけれど、手にぶら下がったり、何かってこと、私全然したこと無いですよ。ただ、ほとんど東京の街を歩くときでも、人に悟られないように、離れて歩いていました。
もの欲しさに彼と一緒にいるっていうことを人に思われたくなったからです。だから私が放送局で働いてるときに、他の同僚たちは何かうすうす、私が外国人と一緒にいるっていうの、何か感じてたらしいんですよね。一緒に、そのときにはもうただほんのちょっと会うだけだったんですけど、皆さがこう言うんですよ。「あなたは国際結婚というのはどう思います」。だから、私はね、ちゃんと言ったの。「私の考えとしては絶対に反対です」って言ったの。「おお、そうですか」と言うんですよね。それで、「私、国際結婚というのは、だいたい危ないし、今そんな時期ではないし、私の考えとしては絶対に反対です」って、その時にはそう言ってたんです。でもその頃だんだん、結婚が念頭にあったかも知れないですけれど、たった一言言わなかったのは、「私の場合は別です」って言いたかったんだけど、言わなかったです。
日付: 2012年1月26日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジーン・玻満子・シュナイダー(旧姓:天野)さんは、1925年、横浜に生まれる。1933年、ラテンアメリカでビジネスをする父芳太郎に連れられパナマで2年間過ごした。パナマへ残った父は、1942年に捕虜交換船によって日本へ戻ってきた。戦後、ラジオ局に勤めていた玻満子さんは、MISの一員として日本へ駐屯していたハリー・シュナイダーさんに出会う。1948年、日本でハリーさんと結婚し、1950年に戦争花嫁としてアメリカに渡る。その後、一女をさずかり、早いうちにアメリカの市民権も取得した。現在は、カリフォルニア州エンシニータスに在住している。(2014年9月)
外からみた母国アメリカ(英語)
日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)
日本の妻の家族(英語)
日本人市民としての意識の欠如(英語)
「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)
日本語能力の欠如(英語)
日本在住、カリフォルニア生まれのビジネスウーマン。祖母である山野愛子の後を継ぎ、美容界で活躍。(1964年生)
日本文化の伝統を保存(英語)
アメリカと日本のいいところを受け継ぐ(英語)
アートをサポートすることの重要性(英語)
イラストレーター、デザイナー
余所者(英語)
南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
10代のサトウキビ畑で働いた経験が、スポーツ選手としてのトレーニングに役立つ
ニックネーム(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)
ワイキキで育った経験(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
太鼓演奏の哲学(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)
演歌歌手(1981年生)