https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1694/
日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)
(英語)ニュージャージーのシーブルックという人が私たちの身元保証人になりました。シーブルックは大規模な農企業で、シーブルック氏は当時まだ存命で、労働者を求めていました。1万人の労働者のうち、日系人は大人と子どもを併せて100人くらいだったと思います。私の母と父はシーブルック農場で働き、私たちはまだ小さかったので親元で暮らしていました。時給は50セントくらいだったと思います。10人で1つの班を作り、小さな量りがあったのですが、それはまさに想像通りの(昔風の)量りで、およそ半ブッシェル(約17.6リットル)の豆を運んできてその上に乗せ、それが20ポンド(約9キロ)になるとパンチで穴を1つ空けてもらえました。穴が1つで20セントかいくらかになりました。一日の終わりには、摘むのが速い人は穴が100個くらいになりました。
日付: 2017年9月15日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジェニファー・クール
提供: ジェニファー・クール、マシュー・ピュリフォイ
1934年カリフォルニア州ジェファーソンパーク生まれ。1942年に家族と共にポモナ集合センターに勾留され、その後ワイオミング州のハートマウンテン強制収容所で収容される。第二次世界大戦の終わりにニュージャージー州のシーブルック農場が労働者として雇用した収容者の中にはカタオカさんの両親もいた。
ニュージャージーの高校を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学し、1957年に美術教育で文学士を取得し、1959年にはコミュニケーションデザインで修士号を取得する。1957年から1965年まで戦車将校として陸軍予備軍に所属する。1966年、UCLAの美術、美術史、デザイン学部の教員となる。1970年代前半、米国初の市内全域で利用可能な分散型の双方向ケーブルテレビ放送システムを開発する。
カタオカさんはデジタル印刷の美術界への導入に貢献し、高品質のインクジェット技術が普及する前から美術館品質の解像度と収蔵可能なインクや用紙を用いたコンピュータとプリンターのシステムを思い描いていた。
カタオカさんは2018年5月死去。(2019年7月)
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