https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/263/
日本人移民の衣服専門家・研究者
(英語) 父が亡くなり生活は一変しました。それまでは結構快適な生活を送っていたんです。父が(亡くなったのは)63歳、(その時)母は39歳――随分年が離れているでしょ!?――で9人目の子を身ごもっていましたが、母はすぐに働かなくてはなりませんでした。妊娠していたし、英語もできませんでしたが、(彼女なりに)家政婦としてなら働けるのではないかと思ったようです。多くの女性はたいていプランテーションの白人家庭で(メイドとして)働いていましたからね。しかし沢山子供を抱えている(8人)という事情と、英語が話せないことが理由で、メイドとしても働けなかったんです。そこで最終的にプランテーションにいた独身者たちの洗濯物を引き受けることになりました。フィリピン人(の独身男性)が近くに住んでいたので、それが母の生計手段となっていたんです。私たちがやっていけたのは、本当に彼らのお陰なんですよ。
プランテーション・マネージャー、アシスタント(の対応)はおかしなものでしたよ。女性が未亡人の女性に1ヶ月15ドルの(遺族)年金しか支給しないんですから。母の場合、(一人で)大家族を切り盛りしてたので、灌漑グループで監督をしていた親戚がマネージャーに掛け合い、状況を説明してくれたんです。「ミセス・オヤマは、8人の子供を抱えこれから9人目が出来るというのに、1ヶ月15ドルでどうやって暮らせるんだ!」とね。するとマネージャーのミスター・ロレンジ(という名前)だったかしら?―はとても同情してくれ・・・ミスター・ロレンジだったかしらね?(名前は)ともかく、(それから)1ヶ月25ドル支給してくれたんです。その上、母にこんな選択肢も与えてくれました。「お葬式と今すぐ必要な出費をまかなうために1000ドルをもらうか、それとも生まれてくる赤ん坊が社会保障の(対象)年齢になるまで月々25ドルをもらうか、どちらがいいですか?」とね。母は田舎で小学校3年までの教育しか受けていませんでしたが、とても賢い人だったので、1ヶ月25ドルをもらう方がいいだろうと考えたんです。(そのお金は)洗濯物の引き受けなどと合わせると、ものすごく助けになりました。おかげで、どうにか生活できたんです。
日付: 2004年2月19日
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)
日本語と価値観をもとに育つ(英語)
(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世
日本の習慣(スペイン語)
二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)
日本文化への興味 (スペイン語)
日系アルゼンチン人、三世
祖父との思い出 (スペイン語)
祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)
アルゼンチンで洗濯屋
沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)
人生でもっとも印象に残っている日
奥さんとの出会い
日本では親戚も少なく(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
家での規律と躾 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
祖父母の閉ざされた過去 (英語)
プロフィギュアスケート選手。オリンピック金メダリスト。(1971年生)
祖母との会話 (英語)
プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)
ジャズとの出会い (英語)
音楽家 (1922年)
母の生い立ち (英語)
ハワイ州上院議員 (1924-2012)
父について (英語)