https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/344/
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
(英語)長い建物がいくつも連なっていました。1つの建物に4家族が割り当てられ、建物の中は4つに仕切られていました。建物の屋根の部分は全部空いているので、近所の人の話が全部つつ抜けで、プライバシーは全くありませんでした。私達に割り当てられた建物の床はコンクリートで、そこに簡易ベッドが置いてありました。部屋にあったのはそのベッドとマットレスだけでしたが、それでもまだ私達はラッキーで、後から来た人たちはマットレスに藁(わら)を詰め込まなくてなりませんでした。床がタールで出来ていて、熱くて柔らかかったので、ベッドがタールの床に沈んでしまうのです。ひどかったと思いますよ。私達の床はコンクリートだったのでひんやりしていましたけど・・・
そういえばある夜、私の娘がベッドの下に寝ていた時があって、娘の姿がベッドにないのですごく慌てたことがありましたね。「大変!娘はどこ!?」って思いました。娘は床がひんやりして気持ちよかったのでしょう、ベッドの下にもぐって寝ていたのです。
日付: 2004年9月15・17日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: アリス・イトウ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。
真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)
妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった
クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)
父親の影響
(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士
キャンプから帰ってきて
(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家