https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/397/
日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)
(英語) 母は「条約商人」という(多くの人達とは)違った種類のビザで渡米しなくてはなりませんでした。私の理解では「条約商人」ビザは比較的生活に余裕がある者に与えられることになっていました。ですから、私の父はまだ若く蓄えがなかったのですが、父と母はファーストクラスの搭乗券を買えるほど裕福だというふりをしなくてはなりませんでした。母は礼儀正しく振舞るまうように言われたそうです。私の両親はこうして渡米しました。
日付: 2003年8月3・4日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: アリス・イトウ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
マリオン・ツタカワ・カネモトさんは1927年12月30日にワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。子供の頃日本で15ヶ月過ごした後、シアトルへ戻り中等教育を受けました。真珠湾攻撃の後、彼女の父はFBIに拘束され、司法省管轄のモンタナ州ミズーラの収容所へ収監されました。彼女自身はピュヤラップ集合センターからアイダホ州ミニドカ収容所へ収容、ミニドカにて父と再会しました。1943年、彼女の家族は日本へ戻ることを志願したため、アメリカ政府による捕虜交換船「USSグリプスホルム号」にて日本へ送還されました。日本で高等教育を受け、戦時中は空襲訓練などにも参加しました。戦後のアメリカ軍占領下の日本で、同志社大学へ入学し、アメリカ軍基地の病院図書館で働きました。その後、アメリカへ帰国し、ミネソタ州ロチェスターのセントマリー教育実習病院に入学。戦中に日本へ送還されていたため、収容所に対する戦後補償を拒否されましたが、集団訴訟の結果、1996年に補償を得ることに成功しました。
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
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クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)