https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/446/
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
(英語) 日本の教育はね、音楽教育に関して言えば(アメリカと)全然違うでしょ。もし本当に伝統的な日本の音楽を勉強したいと思ったらすごくお金がかかるんだよね。日本の学校で勉強するのはショパン、モーツァルト、ベートーベン、(鼻歌を歌いながら)それからチャイコフスキーとかだったんですよ。日本の伝統音楽は教えなかったです。でも今ではそういう教育制度も変わってきてて、他の音楽プログラムで日本の尺八とか三味線とか太鼓を学んでる人もいるんです。それでもアメリカに来たばかりの若い日本人の生徒達は「日本人だけど太鼓をたたいたことがない」って言って来るから、日本人じゃない僕のアシスタントが彼らを教える訳ですよ。太鼓の国から来た日本人なんだけど、アメリカに来てアメリカ人から太鼓を習うんです。「太鼓はやったことない」って言ってね。
日付: 2005年1月27日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アート・ハンセン、ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
北米和太鼓の師、田中誠一氏は1943年生まれ東京出身の新一世です。千葉商科大学を卒業後、1967年にアメリカへ移住しました。移住当初はワトソンビルで苺摘みをするなど農業労働者として働いてました。その後、サンフランシスコへ引越し、1968年にはサンフランシスコの日本町で行われた桜祭りに参加しました。しかし、この時の桜祭りには彼が若い頃日本のお祭りで耳にした太鼓の音が欠けていました。物足りなさを感じた田中氏は、秋祭りの時に、友達で寄り集まり、地元のお寺から太鼓を借り、自ら太鼓を演奏したのです。以後、太鼓を学ぶために、幾度となく日本へ帰国し、そのつど日本で学んだ知識をアメリカの同志へ教えていきました。1950年代に始まった日本での太鼓復興をアメリカに持ち込み、1968年に北アメリカで初の和太鼓道場(学校)、サンフランシスコ太鼓道場を設立しました。以来、彼は何千人もの生徒を教えてきました。
今日、アメリカ・カナダには200以上の太鼓グループが存在しており、その大半はサンフランシスコ道場へそのルーツをたどることができます。田中氏は基本的な太鼓のリズムパターンや動きを教え続けていますが、その教え方は武道が基本になっています。また、彼の太鼓スタイルは、日本のお祭りの伝統に起因していますが、彼自身のアメリカでの体験も反映され、伝統的な太鼓のリズムにジャズ・ラテン・他のリズムなども融合されています。
彼は日本外務大臣表彰や National Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財) を受賞しました。(2005年1月27日)
それぞれの太鼓グループの持つオリジナリティの重要性
太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)
アメリカに住むことの利点
太鼓コンテストを通して育まれるグループとしてのアイデンティティ
日本文化の伝統としての太鼓の音
第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
コミュニティ大学の教師として学んだこと(英語)
教師としての報酬(英語)
日本語学校 (英語)
日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)
日本の男女別教育(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)
二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)
緊那羅太鼓とサンフランシスコ太鼓道場の違い(英語)
和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)
伝統からの脱却(英語)
非太鼓グループとの共演(英語)
仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)
アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)
『青い目の人形』