日本人の場合、自分のルーツをたどろうとするならば、一般的には役所に行って戸籍をたどるのが一番だろう。また、菩提寺があれば寺が保管している先祖代々の記録である過去帳などを確かめるのもひとつの手だてである。
宇和島屋の創業家である森口家の墓のある八幡浜市の堯範寺(臨済宗)にも、代々の記録は残っている。しかし、森口家の場合、その昔の養子縁組などを含めた複雑な親族関係は、戸籍をたどってみてはじめて明らかになるようだ。
創業者である森口富士松は、1898(明治31)年、旧川上村川名津で父森口権七と母スワの長男として生まれる。森口家には富士松のほか、長女カメ、二女キノエ、二男才助、三女キク子、四女春子、五女カナ子、六女イシノがいたほか、四女と五女の間に養女マチノという、あわせて二男七女の子供がいた。
父、権七は1870(明治3)年生まれで、その父、森口松蔵は、1834(天保5)年生まれ、さらにその父は森口右三郎という。この森口家は分家であり、本家の森口家が同じ川名津の集落にあり、本家、分家ともに堯範寺の海を見下ろすだんだん畑のような墓地の一角にそれぞれ墓を立てている。
富士松は1962年8月にシアトルで64年の生涯を閉じる。戸籍によれば、「昭和参拾七年八月参日午後四時拾五分北アメリカ合衆国ワシントン州シアトル市で死亡 同居の親族森口貞子届出 昭和参拾八年拾壱月弐拾日在シアトル総領事受附 同年拾弐月拾七日送付除籍」とある。
窪田竹光と富士松
1923(大正12)年に故郷を離れ渡米した富士松について、故郷にいたころのことや、何を思い何を目指して渡米し苦労したかのかなど、個人的なことについては記録に残っていない。しかし、奇しくも同じ時代にこの地を出てシアトルに渡り成功した人物の話からおよそのことが想像できる。
その人物の名は、窪田竹光といい富士松の母方の親戚にあたるが、シアトルでホテルを経営するなど不動産業を手掛け大成功した。彼の生涯については、84歳のとき帰国した際のインタビューなどを軸として構成されたテレビ番組にもなっている。
テレビ愛媛が「えひめ 人 その風土」(昭和59年日本民間放送連盟賞、テレビ放送活動部門最優秀賞受賞)と題したドキュメンタリーで、窪田が、渡米前の故郷の様子や、渡米後の仕事や苦労について、そして、成功してから故郷や日本を振り返ったときに何を感じたかなど、その胸の内を切々と語っている。
窪田は富士松と同じ川名津出身で、生まれは富士松より4年あとの明治35年。富士松に1年遅れて渡米した。ともに裸一貫から成功した同郷の友人同士。窪田は生前、「宇和島屋は私たちの誇りだ」と語っていた。同郷の成功者というだけでなく、日本の食材を扱い在留邦人のためにも尽くしているビジネスを続けていることへの敬愛の念を抱いていた。
成功したのちは、シアトルに移住してきた同胞の面倒をみるなど、日本人、日系人のために活動し、シアトル日系人会の会長もつとめた。この点は、日本人、日系人で困っているもののためにボランティアで宇和島屋の食材を提供してあげた富士松と妻貞子の姿勢に似ている。
窪田もまた、多くの日本人と同じように渡米当初は、数年で金をためて帰国しようと思っていた。しかし、そう簡単にはいかず、モンタナ州で鉄道工夫として働いたり、シアトル市内で様々な仕事につくなど、本人によれば「昼も夜も働いた」。アメリカで大学を出て身を立てようかとも考えたが、「それにはすごく時間がかかる。二世は大学をでて弁護士になれるが、弁護士は金で雇える。ならば自分は金で生きようと決めた」と言う。
こうして必死に蓄財して簡易宿泊所を経営し、それを一つ二つと増やしやがて本格的なホテルを買収するなどし事業を成功させた。
戦後は市民権を得たが、郷里と日本のことは常に心にあり、里帰りもし、番組のなかでは孫を同伴して故郷の姿を見せている。富士松もまた家族を郷里の川名津に連れてかえり、日本との絆をつないでおこうという気持ちがあった。また、窪田は現地の邦人紙である「北米報知」の発行にも戦後長年携わった。ビジネスとしては厳しかったが、シアトルでの日本人コミュニティーのためにその存続意義を感じていたのだった。いま、北米報知は、富士松の跡を継ぎ中興の祖として活躍した宇和島屋前会長のトミオ・モリグチが支えているが、これもまた故郷が結んだ縁かもしれない。
(敬称略)
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