宇和島屋(Uwajimaya)を立ち上げた森口富士松は、そもそもなぜアメリカにわたったのか、なにかきっかけがあったのか、具体的なことはわかっていない。しかし、彼が生まれ育ち、また修行をしたという愛媛県の西南部の当時の環境とは無関係ではないだろう。
富士松の生まれた西宇和郡川上村を含む地域(現在の八幡浜市)の周辺では、明治時代からアメリカへの移民熱・渡航熱が高まり、時には命懸けでアメリカへわたった男たちが数多くいた。ある時は漁に使われた打瀬船と呼ばれた帆掛け船で、太平洋横断を試みたのだった。
「北針」という、木枠に入った磁石を羅針盤代に帆掛け船のへりにつけて航行したという当時の“密航”の史実は、1980年代に大野芳があらわした「北針」というノンフィクションなどにも描かれている。また、こうした事実が掘り起こされ、とくに渡航が盛んだった旧真穴村(現在の八幡山市真穴地区)では、地元の人たちによって「北針研究会」(後に「地域文化振興協議会・北針」)も誕生した。
進取の気質に富んだ土地柄
この研究会で古老の話などを聴き集めてきた松浦有毅さんが、10年前に地元の移民の動向をまとめ新聞で発表している(2008年4月23日、日本経済新聞)。これによると、1912年から15年の間に八幡浜市周辺から6隻の打瀬船が太平洋を渡りきった。
その第1号は旧保内町川之石出身の5人で、強制送還されはしたが、これがわかっている範囲では日本人が最初に個人の帆船で太平洋を横断した例だという。もちろん失敗した例もあり、洋上で釣り上げた魚を食べて中毒になり亡くなった者もいたし、アラスカ沖まで漂流してイヌイットに救助された例もあった。
こうした危険を冒してまでアメリカに渡った動機はなんだったのか。一般にこの時期の海外移民は貧しさという経済的な理由からと思われがちだが、この地域ではどちらかといえば、一獲千金とまではいわないまでも、なにか夢や志があったようだ。
「……、真穴では網元や庄屋など地域の中でも豊かなリーダーたちが先覚者だった。土地柄として、進取の気質に富み、他所からの情報にも敏感だった。それゆえ、大きな夢を抱いて荒波を突き進むことができたのだろう」と、松浦さんは書いている。
地元、移民熱を高めた西井久八
八幡浜で「進取の気質」と言えば、まずその名前が上がる人物として、「日本の航空機の父」とも称される二宮忠八がいる。1866年生まれで、幼い頃手作りの凧で遊ぶことを覚え、軍に入隊後のあるとき、カラスが滑空する姿を見て飛行原理をとらえ「カラス型模型飛行器」をつくり、その後も実用機づくりを目指した。残念ながら、有人飛行機の成功という点ではライト兄弟に先を越されたが、早くから飛行原理に着想していた功績や実現への情熱が称えられ、地元には二宮忠八の銅像が立っている。
忠八は移住経験があるわけではないが、移民としてアメリカで成功を収め、同じように八幡浜に銅像が立っている郷土の偉人に西井久八がいる。残念ながら昨年私が現地で銅像のある四国山を訪れたときは、銅像は草木に埋もれるような形だったところを見ると、いまは忘れ去られているようだ。が、シアトルやタコマで事業家となった西井のサクセス・ストーリーに触発されて、アメリカへ渡ったものは少なくなかったようだ。
二宮より10年早く、1856年に西宇和郡矢野崎村の半農半漁の次男として生まれた西井は、外国船の船員として働き、最初はオレゴン州のポートランドの製材所で働き、その後シアトルに移り日本人としては初めてレストランを開いた。白人にも人気があった店では、郷里から彼を頼ってきたものを雇い、また、西井は同じようにレストランを開こうとする仲間を援護した。
西井は洋食店をいくつも増やし、また農場経営やクリーニング店、ホテル、金鉱採掘などさまざまな事業を成功させた。さらに、郷里の小学校ができるときには資金を寄付するなどし、シアトル・タコマでも郷里でも慕われ、尊敬されていた。
こうした西井に代表されるアメリカでの成功譚に惹かれて、また海を渡っていくものが多かったのは想像に難くない。おそらく森口富士松もその一人だったのだろう。
(敬称略)
© 2018 Ryusuke Kawai