日本への送還
家族が日本へ送還されたとき、バジルは9歳だった。彼の両親がなぜカナダ東部への移住ではなく日本へ行くことを選んだのか、バジルがその理由を聞かされたことは一度もない。日本に行くことを選ぶその主な理由は、日本にいる親戚の行く末を案じてだが、バジルには両親が特に心配していた記憶はない。しかしずっと後になって、母がその決断をしたんだと教えてくれた。彼は、「母は、カナダ政府の我々に対する扱いに心底嫌気がさしていたから日本に行くことを選んだのだと思います。二人のおばや祖母が日本へ行くのを必死に思いとどまらせようとしたようですが、私たちは不幸にも日本へ行くことになったのです」と述べている。母親は強い意志を持っており、自分の考えをはっきりと口にする性格だった。一方父親は柔らかな物腰の人だった。両親が後々日本にきたことを後悔していたかどうかも、子供たちとそのことについて話すことはなかったのでバジルにはわからない。何年も経ってから、母親がカナダを訪れたときに、日本に帰らずこのままバンクーバーのバジルの家族の元にいたいと口にしたことはあった。
バジルの家族は、ジェネラル・メイグス号という船で日本へ送られた。メイグス号はカナダ政府が日系カナダ人の強制移送のために特別にチャーターした、アメリカ最大の三隻のうちの一隻だった。日本への旅の途中、船酔いをしたのを覚えている。ある日、少し気分がよくなり始めた頃に調理室のあたりをうろうろしていると、そこで働く一人の黒人男性と友達になった。その後バジルは、時々夜遅くに彼に会いに調理室を訪れるようになった。彼はよくバジルに食べ物をくれた。「食べ物が欲しいとき彼はいつもそこにいて、ただ会いにいくだけでいつでも彼は食べ物をくれました。そう頻繁ではありませんでしたが」。船旅に関して、バジルは他に特に記憶に残っていることはない。
船が横須賀に到着し、一家は父親の故郷への移動の手配が整うまでの数日間をそこで過ごした。港内で爆撃によって沈没した飛行機や船の残骸をみたことを記憶している。夏だったので非常に暑く、配給された食事の質はかなり酷かった。「食べ物の中に虫が蠢いているのを見るのが本当に怖かったです。お米のシチューのようなもので、福神漬けという漬物が上にのっていました。その時初めて福神漬けを食べましたが、今も時々作ります。とても硬い、犬用のビスケットのようなものも与えられました。当時歯が強かったのは幸いでした。その食事をなんとか乗り切り、運よく食中毒のようなものにもかかりませんでした」と回想する。
父親の故郷である和歌山県の下里村まで、彼らは汽車で移動した。バジルは道中や汽車がどんな感じだったかをほとんど覚えていないが、汽車がトンネルを通過するときに、車内にひどく不快な石炭の煙の匂いが立ち込めたのをよく覚えている。途中どこかで一度停まり、汽車を乗り換えたことも記憶にある。到着後は父親の両親と生活を共にした。
バジルの母親はすぐに大阪に出て、アメリカ進駐軍キャンプで良い仕事を見つけた1。父親があちこち行っていたのは覚えているが、どんな仕事をしていたのかはわからない。家族と父親の故郷の親戚たちとの間に緊張状態があったのかも思い出せない。しかし、父方の祖母は短気で、特に母親に対してすぐにカッとなる性格だったことだけははっきりと覚えている。バジルにはその理由はよくわからないが、母親が和歌山に家族を残したまま大阪に働きに行っていたことが原因の一つではないかと思っている。「祖母からは敵意のようなものを感じていました。しょっちゅう怒っていました。母親はすぐに大阪に仕事を探しに行ってしまったので、あまり助けになりませんでした。父親と妹たち、そして私だけでした。父のお母さんは本当に強情な人でした」。
しかしバジルはこの間食べ物がなくて苦労した記憶はない。このおかげで、彼には他の多くの帰還者たちのように、村の人や親戚の人たちから嫌われた記憶がないのかもしれない。「私はただ普段に暮らしていました。学校に行って、釣りに行って、海で泳いで、素潜りをして、自分で水中銃を作り、伊勢海老(エビの一種)を獲りました。海の幸で自分を養っていました。時々鮑も獲りました。私は泳いで食べ物をたくさん獲ることができたのです。また川に釣りに行った時、何かを釣り上げたことに気づきました。最初はそれが何かわからなかったのですが、周りの人がそれは鰻だと教えてくれました。家に持ち帰って食べました」。
バジルの一家が日本へ行ったとき、バジルの日本語の会話レベルはあまり高くなかった。漢字も読めなかった。密かになされていたものの、収容所内で日本語を勉強することは公に禁止されていた。かなり古い教科書を使った日本語を教えるところが収容所内にあったことは記憶にあるが、彼は初級レベルより進歩をしなかった。限られた日本語力のせいで、彼は9歳のとき一年生をやり直さねばならなかった(当時日本の子供は8歳の年に就学したので、彼は一年しか遅れていなかったことになる。)バジルは、「私は算数は大丈夫でしたが、そろばんは全く見込みがなく、あれ以来一度も使ったことがありません」という。先生やクラスの友達とのやりとりで困ったことはなく、「私は英語の方が得意でしたが、日本語でも負けていませんでした」と述べている。
バジルが送還されたのは、たった9歳の時であった、カナダ人であることを誇りに思っていたし、彼のトレードマークはメープルリーフのセーターだった。彼は、「学校で、みんなは私が北アメリカから来たことを知っていました。当時彼らはカナダとアメリカの区別がつかず、私をアメリカ人と呼びました。私はカナダ人ではなくアメリカ人と呼ばれることが本当に嫌で、少なくとも一度はそのことで喧嘩になったことがありました。あの頃、私は髪が長く、私は父親に頼んで他の子のように頭を坊主刈りにしてもらいました。髪が長いと、喧嘩の時に相手に髪を引っ張られるからです。私は普通の子がするような普通の喧嘩をしました。でも外国人だからといって目をつけられていたという記憶はありません。ただ、アメリカ人と呼ばれるのが嫌でした」と回想する2。
彼はまた野球をしたこともよく覚えている。「楽しかったのは、野球をしたことです。そこで使われていたボールは、今私たちが使っているボールとは違いました。とても硬いゴムボールでした。私は他の子達より打つのが上手でした。少しだけ他の子より体格が良かったのです。野球が得意だったことで助けられました」。
カナダへの帰還
バジルが12歳の時、母方の祖母と叔母達がカナダで彼の面倒を見てくれることになった。彼女達はカナダに残り、ブリティッシュコロンビア州内陸部のオカナガン湖の北端にあるバーノンという果樹栽培が盛んな町に住んでいた。カナダに戻りたいと強く思っていたかどうかよく覚えていないが、彼の両親がきめた。父親に、英語を忘れて日本に完全に順応してしまう前にカナダに戻った方がいいと言われたことを覚えている。しかし、父親自身もカナダに帰りたかったのかどうか、それを感じさせるようなことは少しも聞いたことがなかった。 日本で父親や妹達と3年間暮らした後、バジルはカナダに戻り、バーノンで祖母や叔母達と暮らした。
母親は、バジルがケロワナというバーノンの近くにいく3人の若い男性と一緒に帰国できるように手配をした。その手配は明らかに功を奏し、バジルは無事にバーノンに到着した。船はハワイに一日停泊し、その後サンフランシスコに接岸した。旅の間、バジルは驚くべき偶然の再会をした。数年前に日本に送還されたときに船内の調理室で親しくなり、彼に食べ物をくれたあの黒人男性と再会したのだ。驚くべきことに、彼はまだバジルを覚えていた。バジルと3人の同行人は、オークランドからポートランドへいく汽車(南パシフィック・ライン)の予約が取れるまでの数日間をサンフランシスコで過ごした。ポートランドからは北パシフィック・ラインに乗り換えてバンクーバーに行き、最後に目的地であるケロワナやバーノンに向かった。
注釈:
1. バジルはそれがどのような仕事だったのかを正確には知らないが、彼女が母国語話者としての英語力と高学歴のおかげで翻訳や通訳の仕事をしていた可能性が高いと推測る。
2. バジルは‘アメリカ人’であるという言葉の人種差別的な意味合いを控えめに捉えているようである。おそらく当時は幼かったからであろう。このように呼ばれたもっと年長の送還された子供たちは意図的に侮辱をこめて言われたのだと強く感じており、例えばジョージ・カワバタのように深刻な心理的外傷を引き起こし、学校に通えなくなった例もあった。(タナカ、21)
© 2018 Stanley Kirk