ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/03/16/

第2回 レモンクリーク収容所での生活

タックは真珠湾攻撃のニュースを聞いたことを鮮明に覚えています。「日曜日、日本語学校でバドミントンをした帰り道、友達と一緒にパウウェル通りにいると、停まっていた車のラジオからそのニュースが聞こえて来ました。皆とても身が引き締まる思いがしました」。

間もなく西海岸の日系カナダ人に対して家や財産を手放すよう命令が出されました。タックは急いで荷物をまとめなければならず、ほとんど何も持って行けなかったことをぼんやりと覚えています。彼らはその後、政府が指名した管財人によって信託管理されていた日系カナダ人の全財産が彼らの合意なしに売却され、その収益が収容所での費用の足しにするために使われたことを知りました。

その他の多くの人々とは異なり、タックの家族は一緒にいることが許され、ブリティッシュコロンビア州東部の山中、スローカン湖畔にあるレモンクリーク収容所に直接送られ、そこでその後4年にわたって暮らすことになりました。彼は汽車での旅が長かったことを覚えています。その時彼の両親はほとんど感情を表に出しませんでした。「生涯をかけて築き上げたものほとんど全てを失うことはとても辛いことであったにちがいありません。けれども今振り返ってみても、彼らはそれをあまり表に出しませんでした。明治時代に生まれた彼らは、「我慢」と「仕方がない」というストイックな精神を有し、来るものはほとんど何でも受け入れるようでした。」

また、十代の収容所での実際の思い出はほとんど良いものだったと付け加えます。

10代のタック(日系文化センター・博物館 2012.11.471)

「十代の若者として、私はのびのびと楽しい時間を過ごそうと考えていました。十代の若者らしく、物事の良い面を見て、興味のある事を見つけようとしていました。幸運にも、レモンクリークにはバンクーバー時代から知っているたくさんの友人がいました。もちろん、私はさらに多くの新しい友人を作り、その友情は今日まで続いています。私達はよくダンスパーティを開きました。私はかなり良いレコードのコレクションを持っていて、それらは友人からとても重宝され、喜ばれました。けれども、私はとても内気でダンスをきちんと習わなかったことが、今さらながら悔やまれます。

冬には、川の岸辺が凍り、よくアイススケートをしました。でも、川は流れていて、遠端では氷が薄くなっているので、岸からあまり遠くに行き過ぎないように注意が必要でした。何人か川に落ちる人がいて、彼らの体を温め、衣服を乾かしてあげるために火を焚かなくてはなりませんでした。私達は時々、鉄道の柵の支柱を盗んできて火にくべました。よく覚えていないのですが、線路の枕木もくすねてきたことがあったかもしれません。

もう一つの冬のお楽しみが、そり滑りでした。これにはいくらかの危険が伴いました。そり滑りに絶好の場所が近くの高速道路だったからです。かなり急斜面である上に、車の往来で雪がならされ、表面がとても滑りやすくなっていて、そり滑りにはもってこいだったのです。車が来ていないことを知らせるために、カーブには見張りを立てなくてはなりませんでした。大人達はこのスポーツについてはあまり快く思っていないようでした。

私は過去も現在もあまり信心深い人間ではありませんが、仏教青年会のキャンプに参加し、仏教会の舞台で被収容者を楽しませるために劇をしました。それらはほぼ全部日本語で、今振り返ると、私が日本語を磨くのに役立ったと思います。その時はわかりませんでしたが、後年、それは日本の初期の生活を生き抜く助けとなりました。

当局は私達にカメラの所持を許可しませんでしたが、開教使がセルロイドの石鹸ケースを本体に使ってカメラを作り、私にくれました。私はそのカメラを使ってかなりたくさんの写真を撮ることができましたが、残念なことに、カメラも写真もなくしてしまいました。日本へ送還される時の混乱または、阪神大震災の混乱の最中で、どこでどのようになくしたのか定かではありません」。

 彼は、ハミルトン先生とハード先生という二人の先生の名前を覚えています。ハミルトン先生については、「彼女が戦前の日本の女子教育にそれほど熱心であったと知りませんでした。振り返ってみると、私は良い生徒ではなく、たくさん口答えをしました。今はそれを後悔し、先生方、特に、ハミルトン先生に対して、逆境を乗り越えて彼女が成し遂げた偉業に最大の敬意を表します。そのような経験の後、教育分野で引き続き活動されたことに感嘆します」。高校生として自分の欠点を認めながらも、収容生活の最後数ヶ月間、カナダ東部への退去や日本への送還のために人々が収容所を去って行く中で、彼はまだレモン・クリーク収容所に残っていた何人かの小学生の教育係に採用されました。

レモンクリーク収容所の高校生 後列左から3番目がタック(日系文化センター・博物館 1995.103.1.2.a-b)

「戦争が終わり、人々がカナダ東部に移住したり日本に送還されるに伴って、教師も生徒もレモン・クリーク収容所を離れましたが、出発を待っている生徒がまだたくさんいました。当時の校長先生は、友人の女性で、残っていた生徒の管理を手伝うように声をかけてくれました。私は正規の教師の資格は持っていませんでしたが、彼女が断っても聞き入れてくれなかったので、結局引き受けました。私は実際に何も教えず、子供達の見張り役のようなことをしていました。ある時、私は学校に漫画本をたくさん持って行き、生徒達にそれらを読んで時間を過ごさせました。私は生徒達を、勉強するように、というよりは、いたずらをしないように監督するためにそこにいました。それは短い経験でした。期間は思い出せませんが、せいぜい数ヶ月ほどだったと思います」。

けれども、スーザン・マイカワの以下の回想によって裏付けられるように、彼は彼が感じていたよりもはるかに強い印象を生徒に与えていたようです。

「1945〜1946学年度は、ハルコ・イトウが私達7年生を教えてくれましたが、学年度末前に収容所を去りました。タック・マツバが私達の新しい先生となり、1946年6月まで教えてくれました(その年私達は日本に送還されました)。彼は私達に、誠実に最善を尽くすこと、そして、進んで与えられた課題をやり終えることを教えてくれました。私は彼が快活で公平な人でとても尊敬されていたと記憶しています」。

彼のカナダでの生活に関する全般的な印象として、タックは以下のように付け加えました。「カナダ政府が私を収容所に送致したのは15才の時で、その4年後、日本に送還されました。レモンクリーク収容所はカナダではありませんでしたから、私のカナダでの生活は実際のところ15才の時に終わりを迎えたのです。レモンクリーク収容所での4年間は、繭の中で暮らしているようでした。もちろん、私が繭から姿を現した時、外界の様子はかなり異なり、適応するためにしばらく時間を要しました。」

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注釈:

1.ノーム・マサジ・イブキ、「バンクーバーから大阪へのタック・マツバの旅 - パート 1」(ディスカバー・ニッケイ、2014年3月19日)

2.同上

3.同上のストーリーより、ノーム・マサジ・イブキによる引用(ディスカバー・ニッケイ、2014年3月19日)

 

* このシリーズは、2020年3月に甲南大学言語文化研究所誌『Language and Culture』(言語と文化)に掲載された「A Japanese Canadian Teenage Exile: The Life History of Takeshi (Tak) Matsuba(日系カナダ人の十代の送還:タケシ(タック)・マツバの生涯)」と題する論文の要約版です。

 

© 2020 Stanley Kirk

ブリティッシュコロンビア州 カナダ 強制収容所 レモンクリーク収容所 第二次世界大戦下の収容所
このシリーズについて

このシリーズは、和歌山県からの移民で、バンクーバー生まれの日系カナダ人二世マツバ・タケシ(通称:タック)のライフヒストリーです。彼の幼少期から10代にかけての第二次世界大戦が始まるまでの思い出や、後に一家が強制退去を強いられ、自宅や家業とすべての財産を奪われ、レモンクリーク収容所に抑留されたこと、そして終戦時に日本へ送還されたことなどが述べられています。

戦後の日本での生活についても記述されています。特にアメリカ占領軍に従事したことや、その後さまざまな民間企業での経歴などが描かれています。また、「日系カナダ人送還者協会の関西支部」の設立に参加し指揮を務めていたことや、引退後の生活についても触れています。送還者に関するデータ収集の過程において、タックにはユーモアのセンスがあり、彼の話し方には人の心に訴えるものがあったので、本来の良さを伝えるために、話の多くはタク自身の言葉で語られています。

2020年5月11日、タク・マツバ逝去


* このシリーズは、2020年3月に甲南大学言語文化研究所誌『Language and Culture』(言語と文化)に掲載された「A Japanese Canadian Teenage Exile: The Life History of Takeshi (Tak) Matsuba(日系カナダ人の十代の送還:タケシ(タック)・マツバの生涯)」と題する論文の要約版です。

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執筆者について

スタンリー・カークは、カナダのアルベルタ郊外で育つ。カルガリー大学を卒業。現在は、妻の雅子と息子の應幸ドナルドとともに、兵庫県芦屋市に在住。神戸の甲南大学国際言語文化センターで英語を教えている。戦後日本へ送還された日系カナダ人について研究、執筆活動を行っている。

(2018年4月 更新)

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