フロリダに「森上ミュージアム・日本庭園」として、「森上(Morikami)」の名を残した京都府出身の森上助次(ジョージ・モリカミ)の晩年の姿を写真におさめたのが、当時パームビーチ・ポスト紙のカメラマンだった諏訪徹(スワ・アキラ)氏だった。1960年代、諏訪さんもまた、夢を描いてアメリカにわたった一人。渡米後にプロのカメラマンとなってアメリカ国内をはじめ世界をめぐってきた諏訪さんについてご紹介したい。
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堀江謙一や小田実に感化され
諏訪さんは、最初からカメラマンを志望してアメリカにわたったわけではなかった。ある種の偶然と、趣味で培った写真の技術がアメリカで生きていくきっかけになった。
大阪出身の諏訪さんは、東京農大に進学、1962年に授業の一環でカリフォルニアの農場で数ヵ月農業体験をした。また、64年には一年間大学を休学してニューヨークで開かれた万博の日本パビリオンで働いた。
アメリカでの生活に魅力を感じた諏訪さんは、卒業後、たまたま父親の知人から、フロリダのタンパで、日本の庭園の仕事をしている人が働き手を探しているということをきいた。さっそく応募したところ合格し、1967年にフロリダへ渡った。
これより5年前の1962年、堀江謙一がヨットで単独太平洋横断の航海に成功するというニュースが日本中を駆け巡った。当時、諏訪さんはこれに影響され、自分もなにか冒険をしてみたいと思うようになった。また、世界を旅して見たまま感じたままを著した、小田実の「何でも見てやろう」にも大きな影響を受けたことが、アメリカ行きの理由の一つだという。
勤め先が倒産
フロリダでの生活は刺激的で満ち足りていて、あっという間に一年が過ぎた。しかし、ここで勤めていた会社が立ち行かなくなり、諏訪さんも仕事を失うことになった。そのときに役に立ったのがカメラの技術だった。
諏訪さんは、自由な時間に写真撮影をしていて、高校生のアメリカンフットボールの試合を撮りによく出かけていた。そのとき、たまたま高校のアルバム写真などを撮影する地元の写真館の主人に声をかけられた。
これがきっかけで諏訪さんの腕前を認めたこの主人から写真館で働かないかと誘われた。日本に帰りたくなかったからまさに渡りに船とこれを引き受けた。タンパから東へ30キロほどのプラント・シティで働くことになった。
「人生はおかしなもので、なんかやりたいとおもって一生懸命探す。そうすると、チャンスが目の前に来てつかむことができる。でもその意志がなければ見えない。なんか仕事がないかなと思っていたからよかった」と、後に諏訪さんは当時を振り返る。
新聞社への道が開ける
さらに写真の仕事を続けうちにあるとき、タンパ・トリビューン紙でのカメラマンの仕事を紹介された。フォトジャーナリズムの世界に惹かれていた諏訪さんは、撮影の実績を積んでから応募したところ実力が認められ、晴れて新聞社のカメラマンとして新たな一歩を踏み出した。
その後も精力的に仕事をこなし、National Press Photographers Association などが主催する写真コンテストでも入賞するようになり名をあげていった。
日本の新聞社とはちがい、アメリカでは大学を卒業してから一斉に全国紙や地方紙に就職して、ほとんどそのまま同じ新聞社で終えるという、就職の仕組みはない。小さなコミュニティー紙や地方都市を拠点とするローカル紙でキャリアを積んで、徐々に大きな新聞に転職していったり、異なるメディアを渡り歩くことはよくあることだ。
もちろん、実力があってのことだが、その点諏訪さんは実力を買われ、今度はタンパ・トリビューンと同じメキシコ湾岸に位置するセントピーターズバーグを拠点とするセントピーターズバーグ・タイムズから誘いを受け、社を変わることに。
ここでは、中央フロリダのオーランドにオープンしたディズニーワールドの取材や、72年に月面着陸をした、アポロ17号の打ち上げを、ケープカナベラル基地で取材した。
こうしてキャリアを積んでいく一方、プライベートな面では、アメリカ人の女性と結婚し、子供をもうけ家庭を築いた。
失敗ももちろん経験したが、73年にはFlorida Newspaper Photographer of the Year に選ばれた。すると今度は、同じフロリダでも大西洋岸の中部、パームビーチにあるパームビーチ・ポスト紙から好条件で誘いを受け転職、新たなスタートをきる。同紙では毎日の単発の写真撮影のほか、いくつもの写真を組み合わせてストーリーを語らせる“picture stories(ピクチャー・ストーリー)”という面をもっていたのも諏訪さんにとっては魅力だった。
森上助次と出会い撮影
諏訪さんは、ここでフロリダに居留するセミノール・インディアンを長期にわたって取材、撮影するピクチャー・ストーリーを手掛けるなどした。パームビーチ・ポスト紙の方針もあるだろうが、当時はまだ新聞にとって良い時代ともいえるころで、一つのテーマをじっくり時間をかけて取材をすることが許された。
1974年3月、諏訪さんは写真部長から「デルレイビーチに広大な土地を持っている日本人がいて、いままで何回も取材しようとしたけれど、みんな断られた。うちのナンバーワンのカメラマンが行っても撮れない。きみは日本人なんだから取材してみないか」と、いわれた。
このころ助次は、雑木林を切り開いたあとにできた、でこぼこ道を入ったところに置かれた古びたトレーラーハウスで暮らしていた。ここからほぼ毎日畑まで古いフォードのトラクターを運転していった。
ヤマトコロニーや助次のことは、上司に言われて初めて知った諏訪さんには、平日は決まった仕事があったので、休日を利用してまず助次を訪ねてみた。警戒されるといけないので、新聞社の人間だと身分を明かしたものの、カメラを持たず「日本から来て、パームビーチの新聞でカメラマンをしている諏訪です」と自己紹介した。
すると、予想に反して助次は、ニコニコしながらとても機嫌よく迎えてくれた。ただ、諏訪さんが日本語で話しかけても、いつも英語で返事が返ってきた。近況など英語で気軽に話をするうちに、農業の技術に関心のある助次は、諏訪さんが東京農大を出ていることを知り、二人の会話ははずんだ。
そのうちどうやら助次が日本語をしっかり理解するということがわかった。トレーラーハウスのなかのテーブルの上に三省堂のコンサイスの英和と和英辞典が置いてあったからだ。また、書棚には、日本の書籍や雑誌がおさまりきれないほど並んでいた。
「アラスカ物語(新田次郎著)」「義経(司馬遼太郎著)」「恍惚の人(有吉佐和子著)」といった文芸書、「豆盆栽入門」「現代農政問答」など農業関係の本、岡本家が信奉する天理教に関係する本、そして雑誌キングの別冊などの背表紙が見えた。
英語の本では「The New Garden Encyclopedia」「Organic Plant protection」など農業関係のものが多数と、助次のライフスタイルを思わせる「Sane Living In A Mad World−A Guide to the Organic Way of Life」などがあった。
(敬称一部略)
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