1969年8月中旬イーストロサンゼルスのボイルハイツ。日系1世、トクジ・ヨシダは自宅の食卓でたばこをふかしながら今日の羅府新報に目を通していた。「第28回二世週日本祭グランドパレードは明日」と出ている。トクジは短くなったたばこを灰皿に押しあてると、リビングにいる妻に向かって言った。
「おい、そろそろ行くぞ」
二人は60代後半ばの老夫婦。ヒサエは盆棚にお茶を添えた。
「ちょっと待って」
ほかにきゅうりの馬とナスの牛、中央には位牌と、若者の写真が立てられている。ヒサエはつぶやいた。
「もう25年も経つのね」
戦死した一人息子だ。決してハンサムとは言えないが、丸顔で親しみやすい笑顔が特徴の子だった。
ケント・ヨシダ一等兵18歳は元442部隊所属で1944年10月末日、北フランスボージュ山地で戦死した。陸軍省からその電報を受け取ったのはマンザナーのキャンプ内だった。夢は漫画家。子供の頃からスーパーマン、キャプテン・アメリカなどあらゆる漫画を読み漁り、自分自身で描いた作品は一度だけ小さな出版社の公募で入賞したこともあった。鉄条網に閉ざされた薄暗いキャンプから旅立っていったケントはついに生きたまま戻ることなく、二人にとてつもない悲しみをもたらした。
窓の外の庭にはブーゲンビリアの花が夏の日差しをいっぱいに浴びている。二人で表へ出ると、つむじ風が吹いた。リビングにいる飼い猫タロが背中の毛を逆立て、突然盆棚の位牌がパタンと倒れた。ヒサエは不意にケントの気配を感じたような気がしたが、その時はあまり気にしなかった。
二人はその後日本人街のグロッサリーストアで買い物をすませ、高野山の開教師と出会った。ヒサエは先程から考え事をしており思いきって尋ねてみた。
「あの、さっき、死んだ息子をそこで見た気がしたのですが」
トクジは呆れ顔だったが、開教師は何かを悟ったかのように「この日本人街は多くの日系人にとっての心の故郷です。今は息子さんとの思い出に感謝してみてください、南無大師遍照金剛」と言って静かに一礼すると行ってしまった。
442部隊はアメリカ史上最も勲章が多かった勇猛果敢な部隊として知られている。しかしそれは、最も死傷者の多かった部隊という皮肉でもあった。そして、ケント・ヨシダについては例外で勲章はナシ。それどころか命令不服従および敵前逃亡の疑いありと調書に記されていた。誰よりも臆病な彼についたあだ名は”フライドチキン”(日焼けした臆病者)。
トクジとヒサエが自宅へ戻ると玄関先に誰かが立っている。軍服を着たその男を不審に思いながらトクジは、恐る恐る背後から近づいた。
「こんにちは?あの、どなた様?」
すると男は振り向いて言った。
「ダッド、ひさしぶり!」
ヒサエは驚きのあまり買い物袋を地面に落とした。青年はにんまりと笑うと、トクジはその場に硬まってしまった。ケントだった。25年前のあの日、キャンプから出て行ったそのままの息子がそこにいる。
「お前生きてたのか??」
そう言うと、「う~ん、残念ながら生きてないけど、なんだか戻ってこれたみたい」
さらにトクジはケントの足元を見た。
「足はちゃんとついてるよ」
ぴょんぴょんと跳ねながら、ケントは当時流行った得意のダンスステップを見せた。
「やっぱりあなただったのね!」
ヒサエは感激してケントに抱きついた。
夕刻の穏やかな太陽光がリビングに差し込み、飼い猫タロは静かにソファの上で寝ている。バスルームからシャワーを浴び終わったケントが出てくると、ヒサエはきれいに折り畳んだ部屋着を差し出した。
「これパパのだけれど、サイズはほとんど一緒よね」
ケントは軍服の代わりに着替えると、「ダッド、だいぶおなか出張っちゃったね」と言いながらだらんとしたウエストの裾をつまんでいる。食卓には天ぷら、お刺身、いなり寿司などが並んだ。
「わおッ!」
ケントは目を輝かせた。大好物のテリヤキチキンもある。それから、いただききますも言わずに、チキンを口に運んだ。
「いっぱいあるから、落ち着いて食べなさい」
そう言うと、ヒサエは大盛りのごはんをよそって手渡した。
「これ美味い!!ほんとに美味いよ!」
久々のおふくろの味に夢中のようだ。
その夜、ケントはヨーロッパ戦線での経験を話した。青白い光の筋が嵐のように降り注いで、そこら中に敵や味方の死体が散らばっていたことなどなど。トクジは腕組みをしながら言った。
「だからお前を行かせるべきじゃなかった。国は間違っていたんだ!」
トクジの怒りは徴兵に関して賛成か反対かの激しい議論をした過去を蒸し返すかのようだった。ケントはすぐ反論しようとした。戦場で無残に死んでいった多くの仲間たちのことを思うと、素直に同意できないと思ったからだ。口からその言葉が出る時、ヒサエの悲しそうな表情を見て話題を変えた。
「でも、母さんからの手紙はいつもうれしかったよ」
そしてしばらく沈黙してから、「僕は隊のみんなに嫌われてたから」。
ケントについたあだ名は「フライドチキン」。
その出来事はフランス・ブリュイエールで起こった。ドイツ軍と一進一退の激しい攻防が続く中でのある日、ケントは廃墟と化した住居内でドイツ兵と鉢合わせしてしまった。もみ合いになったあげく、ケントは相手の懐を撃ち抜いた。血糊がべったりついた壁の奥にはなんと少女が隠れていた。男は大量出血してすでに手遅れの状態だったが、彼の胸のポケットには写真があり、そこに写っている少女が目の前の少女と瓜二つなのである。ポケットにはポストカードも入っていた。ポストカードには少女の顔の輪郭だけが描かれている、きっと家族に送るつもりだったのだろう。男は自分の娘に似た少女を危険から匿いたかったのだ。ケントはなんとも言えない罪悪感を感じて、それらの遺品を持ち帰った。
それから写真の男と彼の娘のことが頭から離れなかった。戦場にいる以上は殺し合いは当然のことだとはわかっているものの、彼にも娘と再会できる未来があっただろう。戦いが激しさを増す一方で、ケントは戦闘に対して消極的になっていた。ついにはその態度が命令への不服従と捉えられるようになり、隊の仲間から冷めい目つきで見られるようにもなった。「フライドチキン」が彼のあだ名になった。
トクジを前にそう話すケントの表情は暗かった。ヒサエはケントの湯呑にお茶を注いだ。
「僕にも仲間を殺された怒りがなかったわけじゃない。隊の面汚し、恥知らずとか仲間から言われたけど、でも、なぜかあの出来事が頭から離れなかったんだ」
ケントは時々、小隊の仲間に呼び出されてリンチを受けるようになった。ある日、ひどい青あざができ鼻血が流れ出る中で、ケントは男が持っていた書きかけの似顔絵の続きを描こうとした。しかし、思うように描けない。
「ちゃんと描けないんだ。どうしても、女の子に笑っていてほしいのに」
トクジの前でケントはうつむいて背中をふるわせている。トクジはケントの肩に手をあてがった。
「わかった、もう何も言うな」
窓の外は小雨がしとしとと振り注いでいる。
「ところでお前、いつまで父さんたちの所にいてくれるんだ?」
トクジは話題を変えた。ケントはリビングの盆棚の方を見て目を細めた。
「明日までみたい」
「たったそれだけなのか?」
ケントは無言でうなずき、空になったおかずの皿をテーブルから下げようとするヒサエの手がぴたりと止まった。
翌日、昨夜の天気がうそのような快晴に恵まれた。日本人街はグランドパレードのために集まった人々で歩く場所もないほどだった。パレードはケントにとってかけがえのない思い出になった。その後3人は川福レストランに行った。レストランは案の定、客でいっぱいで2階席の一角にさらに仕切りをつけて座ることになった。ケントは眼の前に出てきた「すきやき」に目を輝かせた。それから3人は色々なことを話した。トクジとヒサエの終戦後のこと、社会のことなど。
いつの間にか時が経ち、窓の外は日が暮れかかっており、ケントは寂しそうにぽつりと言った。
「もう時間がないみたい」
とたんに3人の間に沈黙が流れた。覚悟していたこととはいえ、トクジとヒサエにとっては心臓を貫かれるような思いだった。
「せめてもう少しいれないの?」
ケントは無言で首を横に振った。トクジは息子に男の涙を見せまいと必死にこらえている。ケントは涙ぐんだ。
「もうちょっといたかったかんだけど」
3人とも胸がいっぱいだった。ケントの上半身は徐々に薄くなりはじめた。まるで背後に沈む夕日と同じように。トクジは最後の言葉をどうにか探している。
「上手く言えないが、父さんと母さん、とにかくお前を誇りに思ってる」
トクジはついに泣き出してしまった。ヒサエも泣いている。
「戻ってきてくれありがとう。父さんと母さん、本当にうれしかった」
ケントの上半身は空気にとけこみ、最後に顔だけが残った。
「僕もうれしかった。元気でね!母さんの手料理本当においしかった!」
精一杯の笑顔をつくるとついに消えていなくいった。
「本当にあの子、もう戻ってこないのね」
ケントが座っていたところには、飲みかけで気の抜けたビールと、しわくちゃになった1枚の5ドル札が置かれていた。
それから1週間後に奇妙な出来事が起こった。日系退役軍人会にとある女性から手紙が送られてきた。送り主はカレン・シュミット。ドイツ・フランス・イタリア戦災孤児支援者協会会長とある。その女性はずっとヨシダファミリーを探していて、彼女が手にしているケントの遺品を直接返したいとのことだった。
その1ヶ月後、ロサンゼルスへカレンがやってきた。カレンは40代半ばのドイツ人女性で、3人はイーストLAの日系人墓地、エバーグリーンへ向かった。ケント・ヨシダの名が刻まれた小さく控えめな墓石の前に立つと、カレンはバッグから丁重に布で包んだ物を2つ取り出した。一つは古びたポストカード。そしてもう一つは小さな手帳だった。
「このポストカードと手帳は、一緒に戦時中に私のところに送られてきました。送り主はケントさん御本人でした」
トクジとヒサエは手にしたポスカードを見てはっとした。ケントが泣きながら話していたカードだった。さらに手帳の中身を見た。記載ははっきりとわかるものだった。漫画だ。内容はごく単純かつ数ページに簡単にまとめられている。敵地で一人はぐれてしまった主人公が、親を失った少女と偶然出会い、その少女の力を借りながら、自分の隊までなんとか戻るが、実は少女の父を殺してしまったのは主人公だったという結末だ。
「これらが送られてきて、夫がケントさんに殺されてしまったのだということをなんとなく悟りました。ポストカードの女の子は私の娘ですが、実は彼女は夫が戦争へ行く前に病気で死にました」
トクジはヒサエはそれを聞くと、申し訳ないという気持ちでがっくりと肩を落とした。
「夫は似顔絵を描いて、私と娘との思い出に浸りたかったのでしょう」
それからカレンは漫画とポストカードを墓石の前に供えると言った。
「はじめはケントさんを許せませんでした。夫を殺した上にバカげた漫画を送ってきたと思いました。しかし時が経つにつれてその考えが変わりました。人の痛みがわからない人間にこんな悲しい漫画が描けるはずがない。ましてや当たり前のように人が死んでいく戦場なのですから」
ヒサエは涙ぐんだ。
「それは何度も何度も消しゴムでけした跡のあるポストカードからも想像できました。ケントさんはきっととても苦しんでいた。そしてそれは彼が誰よりも優しくて勇気がある人だったことの証明です」
トクジは涙をこらえ、ヒサエはその場に座り込んで泣きながら墓石に話しかけた。
「あなたはきっとこのために戻ってきたのね」
トクジとヒサエは先月のケントの里帰りについて話した。カレンは信じられないという顔しながらも、自分が今ここに立っているという事実がその奇跡を物語っているとわかった。3人は胸いっぱいになった。ケントの墓に花を添えて一緒に手をあわせた。すると、そよ風が木の葉を揺らし、湖面に波紋をつくった。手帳のページがパラパラとめくれて最後に成長した少女とカレン、宙に舞うポストカードには少女とカレンの夫の笑顔が浮かび上がっていた。
俳優の尾崎英二郎さんによる「戦場の漫画家」の朗読。2020年7月23日開催、第7回イマジンリトル東京ショートストーリーコンテスト・バーチャル授賞式にて。リトル東京歴史協会主催、全米日系人博物館ディスカバーニッケイプロジェクト共催。
* このストーリーは、リトル東京歴史協会による第7回ショートストーリーコンテストの日本語部門での最優秀賞作品です。
© 2020 Junzo Arai