食品試作料理人の職へ応募
こうして生物学から料理の道へと方向転換したものの、研究者魂は消えなかった。レストラン勤務時代も、料理に対する探求心を抑えることができない。
「たとえば、なぜパスタはこんなふうに調理するんだろう、肉をこのように焼き付けるのはどうしてだろう、といった疑問が次々浮かぶんです。でも、効率重視のレストランでは答えを探し求める時間はありませんでした」
効率と探求のはざまで葛藤していた時、友人がいい仕事があると教えてくれた。
「当時住んでいたボストンで、料理雑誌『クックズ・イラストレイテッド』の食品の試作をする料理人(Test cook)の求人情報が新聞に載っていたんです。調理だけじゃなく、レシピの試作や研究もできるなんて!と飛び付きました」。
選考は1カ月に及ぶ厳しいものだったが、ケンジさんは見事に通過。編集部に「長年温め続けてきた料理に対する疑問を解決したい」と伝えると、二つ返事で許可された。
「化学のような話題はともすると無味乾燥になりますが、たとえば普段食べているマカロニ&チーズにも化学が応用できると聞けば、読者はがぜん興味を示してくれることがわかりました」。
フードライターとして刊行した本がベストセラーに
自分が誰かに何かを伝える職業に携わるとは思ってもみなかったケンジさんだが、調理か試作をする以外の時間は全て執筆活動に注ぎ、文章力を磨いていった。そうして生まれたのが、フードライターとして初めての著作『The Food Lab』(2015年、邦題『ザ・フード・ラボ ~料理は科学だ~』)である。刊行までに5年の歳月を要した意欲作は、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー、ジェームズ・ビアード財団賞、IACPクックブック賞など多数の賞を獲得した。
2020年には、文章を担当した児童書『Every Night is Pizza Night』が出版された。絵本の主人公は、世界でいちばんおいしい食べ物はピザだと信じて疑わない女の子。自分と違う文化で育った子どもたちに出会い、各々に「世界でいちばんおいしい食べ物」があることを知っていく。
「自分にとっての“いちばん”が相手にも“いちばん”かと言ったらそうではないし、今日“いちばん”と感じるものを、明日の自分も“いちばん”と感じるわけではない。でも、それでいいんだよ、と伝えたい。そして、何かを肯定するために誰かが好きなものをおとしめたり、自分の気持ちにふたをしたりする必要はまったくないことを、子どもたちに知ってもらいたかったんです」
ケンジさん自身にとって、「おふくろの味」や「ふるさとの食」のように強い感情を抱く食べ物は特にないと言う。
「都市部で育った私と同年代の40代であれば同じかと思うのですが、父や母の家に代々伝わるレシピを受け継いでいく、というような文化があまりないんですよね。食事はテイクアウトも多いですし、私の母がそうだったように、いろいろなレシピ本を参考に料理をしている」。
特別な調理法や秘伝のレシピ、ここぞというときのお助けテクニックなどを持たない人が増えている現状に、ケンジさんはむしろ「どんなレシピも自分好みにアレンジできる」と肯定的だ。「技術的な知識と情報を手に入れていれば、ですがね」
昨年発表したばかりの新作『The Wok』は、まさに知識と情報を手に入れたい人のための本だ。
「中華鍋(Wok)は、日本人にとってはなじみがある調理器具だと思います。だから中華鍋を長年使い、料理に満足している人に言うことはありません。ただ、中華鍋は近年、さまざまなアジア料理に用いられているので、レパートリーを増やしたい人にはぜひ読んでもらいたい」
フード系インフルエンサーに
ケンジさんは、YouTuberとしての顔も持つ。基本的に動画で取り上げるのは家族に作る食事だ。ケンジさんには6歳になる娘と1歳の息子がおり、妻のアドリアナさんはコンピューター業界の会社員のため、フレキシブルに働くケンジさんが家事や育児を主に担う。とりわけ日々の料理は全てひとりで作っている。
「現実の生活の中、家にある材料で家族に作る料理。そのリアルさが僕の動画の魅力なんだろうと思います。こんなの作れない!と視聴者に思わせてしまう“出来過ぎ”な料理コンテンツもたくさんありますから」。
撮影の際に台本を用意することもしない。
「ノープランで調理するのが僕のルール。そうすることで、なぜこんなふうに作るのか、どうしてここではレシピ通りにしないのか、といった説明がしやすいんですよね。よく動画内でジョークにするのですが、なにしろ僕は自分の書いたレシピ通りに調理したことが今まで一度もないんです!」
執筆、動画撮影、育児で多忙を極める傍ら、地元のレストランにも足を運ぶ。
「シアトルの飲食業界は居心地がいいですよね。育ったのはニューヨークですが、あそこは僕には大き過ぎました。終わりなき競争に巻き込まれ、常に何かを見落としているような焦燥感があります。でも、ここは違う。シアトルの街を端的に表すと『カジュアル&リラックス』ですかね。普段着でふらっと寄れる店がたくさんあるし、シーフードも新鮮で質が良いのに手頃な価格なのがうれしい」
昔から「なぜ」を問い続けてきたケンジさんの探求心は、今もこれからも衰えることがない。今度はどんな料理を掘り下げて、私たちの好奇心と胃袋を満たしてくれるだろうか。
ライターのエレインさんによるケンジさんとのインタビュー(2022年)
*本記事は『北米報知』2022月9月23日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したもので、シアトル生活情報誌『Soy Source』(2023年2月8日)からの転載。
© 2022 Elaine Ikoma Ko